寿司






「……生臭い」

 屋敷中に充満しているらしき悪臭に、骸は思わず眉をしかめた。少しでも臭いの少ない場所を探そうと屋敷の上から下まで端から端まで歩いてみたものの、無駄だった。濃淡に多少の差はあれど、臭いは変わらない。閉め切っていたはずの自室にすら臭いが染み付いていたくらいだから、臭いから逃れるには屋敷外へ出るしかないだろう。
(これは魚の臭い……ですよね)
 一応近くに漁港はあるものの、まさかここまで臭うはずもなく。大量の魚の死骸でも誰かが持ち込んだのだろうか。
 ――どこの馬鹿だ。
(ジョットに聞いてみますか)
 仮にもボスなのだし、この臭いの原因くらい把握しているだろう。いや、ジョットが何かした可能性もあるが。
 とにかくジョットに会いに行こうと決めれば、不思議と臭いなんて気にならなくなったが、気付かないフリをした。
(あくまで原因を突き止めるためです。知的好奇心を満たしたいだけ)
 その必要もないのに適当な理由をつけて、骸は足どりも軽くジョットの執務室へ向かった。
















「…………」
 しかし、執務室にジョットはいなかった。溜まった書類にまで染み付いた臭いが、ジョットがいないと知れた途端に鼻をつく。
「……クサい」
 ああもう、面倒な!
 苛立ちもあらわに踵を返し、廊下を歩いていた構成員を適当につかまえて臭いの原因を尋ねた。本当に知りたいのはジョットの行方だが、誰かにジョットのことを聞くのは嫌だった。
「ああ、今朝がた雨の守護者様が新鮮な魚をお持ちになりまして。ジャポーネの料理を振る舞って下さるそうですよ」
 ――ということらしい。しかし一体どれだけ持ち込んだらこんな臭いになるというのか。
(というか、臭いが漏れないように持って来なさい!)
 馬鹿でかい生魚を吊して屋敷を闊歩する雨の姿を想像して、骸は深く深くため息をついた。

(………似合い過ぎ……)



















 調理場に近付くにつれて、確かに臭いは強くなっていた。食への興味が薄い骸は魚が好きなわけでも嫌いなわけでもないが、さすがにこれだけ悪臭を嗅げば嫌になる。むしろもう鼻が麻痺してきているが。
(日本料理ねぇ……)
 そう言えば日本には魚を生で食べる習慣――もとい、文化があった。それ自体は別に構わないのだが、生ということはこの臭いもそのままということではないのか。
 それは少々辛いだろうに。
 調理場の扉の前で、いったん立ち止まる。中の気配は二つだ。おそらく雨とジョットだろう。だが、それ以上に扉から立ち上るかのごとく広がる悪臭――ほとんど刺激臭に進化しかけている――がかなり気になる。とても気になる。ぶっちゃけ入りたくない。だが、ジョットがそこにいる以上、入らざるを得ないというかなんというか……。
 盛大にため息をつきかけてやめた。呼吸は最小限に留めておきたい。
 ノックをするのも面倒なので、そのまま扉を開ける。
「……!!」
 途端、もふぁ〜、なんて擬態語が頭に浮かんだ。息を止めているにも関わらず感じてしまうとんでもない臭気に目眩がする。

「あ、骸!」
「おー、珍しいな」

 のんびりした声は、悪臭のド真ん中、ようするにとんでもない量の魚の大群のただ中から聞こえてきた。声から案の定ジョットと雨の二人であることは確認できたものの、顔も見えない。漁港風景そのままのように積まれた魚(かなり大きい。小ぶりの鮫くらいはある)の壁に阻まれて、こちらからではあちらの姿などカケラも判別できなかった。どうやら二人は魚と魚の僅かな隙間から骸を見ているようだが、どこにそんな隙間があるのかすら骸にはわからなかった。探そうとすると魚の濁った目とばかり視線がかちあって気持ち悪い。
「あっちから回って来て〜」
 ジョットののほほんとした声が若干くぐもって聞こえる。あっちとはどっちだと言いたくなるほど壁は高く強固なのだが。あっちあっち〜!と声が聞こえるあたり、おそらく壁の内側で“あっち”とやらを指しているのだろう。
「あー、見えてないみたいだぜ。骸〜、流しの方から回って来れるからそっちから来いよ」
 冷静な雨の声の通りに流しの方から迂回する。
「……!」
 ふと流しが目に入って、骸の足が止まった。
 魚のサイズに見合った大きさの鱗がどっさりと大盛になっていて、水はおそらく流れないだろう。
(本当に、食べる気……ですか……)
 いかにも下準備と言ったその様子に、骸はうんざりした。ここまで来るのに嫌と言うほど魚の臭いを嗅いでいたので、さすがに今は魚料理など考えたくもない。
 とりあえず見なかったことにして、魚の壁伝いに移動する。そう広い場所でもないので、すぐにひと一人がやっと通れるくらいの切れ目にたどり着いた。

「こっ、これはまた、なんとも……」

 骸自身は子供なので余裕で通れるが、大人――特に雨や嵐のような体格の者にはぎりぎりだろう。それだけならまだしも、最悪なのは切れ目に列んだ魚たちが全てこちらを見ていることだ。縦8段横5列、それが左右それぞれからだから、80匹。尾を向けているものなど一匹もないので、160もの濁った瞳が同時に骸を睨んでいる。
「……見ないで下さいよ……」 
 別に怖いとかそういう類の感情は湧かないが、一般的に考えて、あまり気持ちのいい光景ではなかった。というか、普通ここまで不気味な道など作ろうとも思わないだろうに。

「ど〜した〜?」

 間延びした声はジョットのものだ。
「…………別に」
 ジョットの趣味だとは思いたくないが、1番やりそうなのはジョットだった。
 脳裏に過ぎった嫌な考えを強引に振り払って、魚の道を通り壁の内側へ入る。そんなはずはないのだが視線が追って来ているような錯覚を覚えた。気のせいだと思いたい。

「………………………………あなたの趣味を疑います」

 だがしかし、160なんて大したことはなかった。数えるのもうんざりするほどの魚眼の群れが、開けた調理スペースを一斉に見つめていた。彼はそんなに魚顔が好きなのか。疑うべきは趣味より正気かもしれない。
「え、何が?」
 やっと面と向かえた彼は、ぽかんと間抜けヅラをさらしていた。その隣では雨が苦笑を浮かべている。
 雲のやつがこの場にいたら、「趣味悪いよ」の一言とともにトンファーで強烈なツッコミを入れそうなものだが、あいにくと雨はそこまでしてくれない。かくいう骸もさすがにツッコむ気力をなくしていた。
「……別に」
 頭痛を感じて額を押さえる。考えないのが1番楽だ。4桁はいきそうな数の魚眼も無視しよう。こういうガラの壁だと思えば、なんとか耐えられる。
「一応確認のために聞いておきますが、何をしてるんですか?」
「雨がお寿司作ってくれるんだってさ」
「それにしては随分と魚が多いような気がするんですけど」
「あはは、今日はいつになく大漁だったらしくてな。安くしてくれるっつーからたくさん買ったんだが、こんだけありゃファミリーどころかここらの住民みんな腹一杯だな〜! いっそみんな呼んでお祭り騒ぎってのもいいかもな!」
「あ、それいい! お祭りけって〜い!」
 のほほんと話すその間も、雨は休むことなく手を動かした。その度に魚の硬い鱗がばりばりと音を立てて剥がされていく。なかなか手際がいい。
 ――って、

「ちょっと待ちなさい!」

「ん?」
 骸の鋭い制止に雨が不思議そうに振り返る。その手には、イタリアにおいては珍しい日本刀が握られていた。
「……まさか、それで切るつもり……ですか……?」
 恐る恐る尋ねる。それ――すなわち刀だ。実際鱗を剥がすのにもその刀が大活躍していたわけだが、まさか身までそれで切るわけではあるまいな。

「はは、これが1番切れ味良くてな〜!」

 笑いながら、骸が止める間もなく身をすぱすぱ切り始めた。
 その横ではジョットがおぉ〜!!みたいな顔で嬉しそうに眺めている。確かに歓声をあげたくなるような鮮やかな手さばきではある。ではあるけれども。
(……こ、この人達は……!!)
 なんだろう、無性にそこらの魚でブッ叩いてやりたい。適度な湿り気で、びたんびたんとかなりいい音がするだろう。
 日本刀の切れ味が抜群なのは当たり前だ。何てったって刀なんだから。人間だって骨ごとバッサリ両断できる世界最高の刃物なのだ。そこらの包丁と比べてどうする。
 でもだからと言って刀で調理をするのは如何なものか。
(……考えない考えない)
 自己暗示のように脳裏で唱えて、骸は無理矢理別のことに意識を向けた。
「……ネタはたくさんあるみたいですけど、米はどうするんです? 確か寿司には短粒種が必要でしょう」
「お! 骸物知りだな〜!」
 雨が感心したように声を上げるが、手は一向に止まらず2匹目(実際は何匹目かわからないが)に取り掛かる。見る見る赤い切り身が積み上がった。
「でもその点は心配ねーぜ。新米じゃないのは残念だけど、日本米ならたくさん備蓄してあるからな」
(そういえば、屋敷の裏にバカでかい蔵があるけれど――まさかな)
 ちらりと過ぎった嫌な予感を骸は意図的に無視した。わざわざ寿司のために日本米を大量に備蓄するマフィアなど、考えたくもない。
 そんな骸の思いも知らず、ジョットはどんどん捌かれていく魚達を楽しそうに目で追っている。
「庭に屋敷中の鍋全部集めてご飯炊くんだ。料理長がすごくこだわってるから、ぷるつやご飯になるぞ〜」
 ご機嫌なジョットは鼻唄混じりで小躍りでもしそうなくらいだ。

(ぷるつやなのはあなたの脳みそでしょうが! きっと皺のひとつすらないんでしょうね!)

 マフィアが炊き出しなどと、いよいよ頭痛がひどくなってきた。
 実に阿呆らしい。
「……ま、まあいいです。屋敷は臭いがひど過ぎますから、僕は街に出てます。これ以上ここにいたら臭いが染み付いてとれなくなりそうだ」
 馬鹿も伝染りそうですしね、とまでは口にしないで、骸は魚に見つめられながら元来た道を戻ろうとした。
 ――が。

「ボス〜、隊長〜、来やしたぜ」

 がやがやと現れたのは、雨の部下達だった。
 事務能力や警護能力に優れた嵐の部隊などと違い、武闘派の多いボンゴレの中でも最前線に立つ猛者が揃っている。つまりは、がたいが良く幅をとる男たちだ。
 頼りになると言えばそうなのだろうが、そもそも頼る必要がない骸からすれば――

(…………邪魔、なんですけど)

 その一言に尽きる。
 本人にその気はなくとも、唯一の道をその恵まれた体で縦横ともにぎっちり埋めているのだ。しかも1人や2人ではなく、調理場の入口あたりに5・6人が待機しているのが気配でわかった。さすがの骸も、むさ苦しい偉丈夫達がたむろしているところに割って入るのはためらわれる。気分的に。
「おぉ、これは珍しい。霧の方もいらっしゃるとは思いませんでしたな」
 男たちの一人が骸を見つけて驚いたように身を揺らした。その拍子に両サイドの魚に体が当たって、魚の口がパクパク動いた。
「……っ」
 もう何と言ったらいいのやら。目に毒な光景だった。
「おー、悪いな。はい、これよろしくな」
 強い脱力感に苛まれる骸をおいて、雨が切り身がいっぱいに盛ってある皿を男に渡す。どうやら彼らは運搬要員らしい。
「あいよー。裏庭でいいんですよね?」
「ああ。あっちで料理長の指示に従ってくれ。あとついでに嵐んとこの誰かに今日は祭だって伝えといて」
「りょーかい!」 
 骸一人分くらいの重さは優にありそうな皿を軽々と持って、男は狭い魚道を戻っていった。
 しかし入れ代わりで直ぐさま別の巨漢がやって来て道を塞ぐ。
「んじゃ、これなー」
 雨の手によってどんどん貯まっていく切り身をジョットが皿に盛り、それを雨が男に渡すという流れがいつの間にかできていた。
 ただでさえ狭い中を男達がせかせかと働く図を、骸はうんざりしながら見ているしかない。とにかく邪魔で邪魔で邪魔過ぎる。
 ここから出ることは不可能ではないが、無理に流れに逆らって体が触れたりしたら、幻覚に気付かれるかもしれない。雨の部下は皆歴戦の猛者ゆえか勘がよく、ちょっとしたことにもよく気づく。見た目に似合わずマメであったりするのも、そこらへんに起因しているのかもしれない。今の骸にとっては全くもって喜ばしくないが。
「……はぁ」
 そうこうしているうちに骸の嗅覚はもう完全に麻痺してしまった。もう感じることはできないが、服や髪に臭いが染み付いているのは確実だろう。どうせ部屋まで臭っているのだから大して変わらないけれど。
「次それ〜、そん次こっちな〜」
 そんな骸の目の前で続々と皿が運び出され、みるみる魚の壁が崩されていく。既に男たちは何度も往復を繰り返していた。
 とことんハイペースなので、さすがに息も上がって来たらしい、彼らの額にはじんわりと汗が滲んでいた。
 そしてその内の一人が、ただぼんやりと見ているだけの骸に見かねて声をかけてきた。
「ほれ、働かざるもの食うべからずってやつだ」
「……は?」
 気付いた時には、骸の頭上――幻覚を含めた見た目で言うなら胸のあたりだが――に巨大な皿が迫っていた。
「はぁ……!?」
 驚愕の声を上げながらも、確実に自分と同じかそれ以上の重さはあるそれを受け取る…かのような幻覚を作ってしまった。つい反射的に。
 男からすれば、大人の骸がごく当たり前に皿を受け取ったようにしか見えず、なんら不審に思うことなく手を――

「ま、待ちなさ……っ!」

 ――離した。
(!!)
 自然の摂理のままに大皿が落下する。
 あまりに狭いこの場所では、そもそも避ける余地がない。

「骸っ!!」

 瞬きひとつの間に、黄金色に輝く炎の軌跡が駆け抜けた。
 何が起きたのかわからず皆がぽかんと口を開ける中で、雨はあ〜ぁ…と手を止めて苦笑い。そして骸はと言えば――

「…………ぁ」

 ジョットに抱き抱えられた姿勢で固まっていた。普段からは考えられない力強い腕の中で、どうしようもなく顔が火照るのを感じながら。
 それは周りからすればさぞかし不思議な光景だったろう。幻覚を練る余裕もなかったので、骸の幻覚は皿を受け取ろうとした姿のまま。そこへジョットが障害物を溶かしながら最短距離で飛び込んだものだから、幻想的な舞台の上でワルツでも踊っているかのようだった。しかも事実とは全く逆の構図である。その矛盾には当人たちしか気付けないが。
 そして不思議もしくは奇妙さの極め付けは、ジョットの片手にすとんと乗っかる大皿だ。もちろんこんもりと切り身が盛ってある。溶けた舞台にワルツでお寿司。何の冗談かと言いたい。いや、実際骸は言いたかった。
「っ、……あ、ぅ……っ」
 しかしその口は金魚のようにぱくぱくと無意味に開閉を繰り返すだけで、声にはならなかった。
「骸、大丈夫か?」
 優しい声が、ごく間近に響く。
「〜〜〜っ!!」
 一気に顔面が沸騰した。

 どんっ
「わっ!?」

 無意識のうちにその手はジョットの胸を全力で突き飛ばしていた。幻覚でごまかすことも忘れて、奇異の視線も振り切って、とにかくその場を離れたい一心で骸は飛び出した。
「おーい、骸? どこ行くんだよ〜!」
 背後からジョットの声が聞こえたけれど、なかったことにした。
 だってあまりにも頬が熱くて、どうにかなってしまいそうだったから。
 
 骸はただひたすらに走り続けた。
























「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

 足が動かなくなるまで走り続けて、気付けば屋敷とは正反対の郊外に来ていた。
 ボンゴレの領地の外れも外れ、調度境目のあたりだ。
 とは言っても、隣は広大な雲の領地なので大差ないのだが。

「はぁ……はぁ……は……」

 とりあえず呼吸を整えることに努めるが、それ以上に喉の渇きが気になった。
 キンキンに冷えた水が欲しい。この際ビアでもいい。いやむしろオン・ザ・ロックのブランデーとかジンとかウォッカとか、いっそのことテキーラなんかがいいかもしれない。
 ようはヤケ酒気分というやつだった。
「はぁ…………」
 しかしなかなか真昼間から営業しているバーなどないので、せいぜいカフェぐらいしかないだろう。
 辺りに目をやれば、客も疎らな小さなオープンカフェが一軒目についた。
「……は……」
 息も大分調ってきたことだし、とにかく何か飲もうとそちらへ足を向けかけて、気付いた。

(……最悪だ……!)

 財布が、ない。
 いや正確には、忘れた。
 もっと正確に言うなら、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったため、忘れる以前に持ち出す気もなかったのだ。
 なので、今の骸は手ぶら同然だった。まぁ誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せるけれど。
「……はぁ」
 今度は完全にただのため息だった。
 とにかく持ち合わせがないのだから、適当に街をぶらついて時間を潰すしかない。

「おや、この臭いは……」

 突然聞こえた『臭い』という単語にどきりとした。さりげなく辺りに目をやれば、通り掛かった初老の男がくんくんと鼻を利かせて、楽しそうに連れの女性に語りかけていた。
「何と言ったかね、あれは……スイ――じゃない、スシ? ジャポーネの民族料理の香だ」
「そうですわね。またボンゴレファミリーかしら? 最初は魚を生で食べるなんて驚きましたけれど」
「ああ。だが、何でも食べてみるものだな。米に魚を乗せただけだというのに、ああも上品な味わいになるとは」
「ええ、本当に。またお誘いいただけるといいのだけれど」
「はは、若きボスは懐が広い。それに皆で騒ぐのを好まれるからな。きっとまた街中の人々で馬鹿騒ぎだろうさ」
「あらあらはしたない。でも、たまには良いですわね」
 上流階級の人間だろう身なりの良い二人は、子供のように目を輝かせてボンゴレの屋敷の方角へとのんびり歩き去っていった。
「………」
 なんとなくその背を見送りながら、骸はなんとも複雑な心境だった。
 どうやら雨が寿司を振る舞うのは初めてのことではないらしい。しかも生魚に抵抗のあるだろう街の人間にも好意的に受け入れられているようだ。
 らしいと言うか何と言うか。
 まあマフィアとしては異常も異常、気が触れたとしか言えない状態だが。
 自分もその括りに入れられているかと思うと気が滅入った。

「なあなあ、聞いたかよ!」

 そんな中で突然響いた無邪気な声は、変声期にはまだ遠いだろう高い声だった。
 少ししゃがれて、舌足らずで。
 思わず骸は声のした方を振り返った。
「騒がなくても聞いてたよ。ボンゴレの屋敷だってね」
「うん」
 飛び込んで来た光景に骸はほんの少しだけ目を見開いて、それからひどく遠い目をした。
 くすんだ金髪の、いかにもやんちゃ盛りといった様子の少年を先頭に、大人しそうな黒髪の少年と少女が列んで歩いている。あまり身なりがいいとは言えない薄汚れた格好で、肉付きも良くなく痩せていて、それでもしっかりと寄り添って生きているのだろう3人の子供たち。
 
 似てる。彼らに。
 
 でも、まるで遠い。想い出よりも余程現実味がない、離れた世界。有り得なかった光景だった。
 骸が目を離せないでいる間に、彼らの話題はボンゴレの屋敷で催されるであろう祭に固定されたようだ。
 どんな催しかに始まり、最終的には行く・行かないの話し合いになる。3人の行動は3人による話し合いで決めているようだ。

『3人で考えなさい』

 いつかの自分の言葉が脳裏に蘇った。
 目の前でああでもないこうでもないと言葉を交わす子供達は、随分と時間がかかったものの、微笑ましい議論の末にきちんと結論を出したようだ。
 彼らも、こんなふうに暮らしたのだろうか。つかの間の日々は、それでも幸せだったろうか。
 フィルター越しのように見える柔らかな空間の中で、子供達は足取りも軽く先ほどの初老の紳士と同じ方向へ駆けて行った。
「……」

 骸の足は、意識せぬままににそれを追っていた。






















「雨の板前さんよ、こっち米炊けやしたぜ!」
「おう! じゃあ持って来てくれなー」
「あいよー」
「ボスぅ、大皿が足りねぇぞ〜!」
「えぇ!? あんなにたくさんあったのに! あ、広間に飾ってある大皿使っちゃっていいよ!」
「いいんですかい? あれは確か時価数千万の一品でしょう?」
「いいっていいって! 皿は皿だし」
「がははは、さすがはうちのボス! 実に大雑把ですな!」
「それ褒めてんの? 褒めてるんだよな??」
 見慣れたはずの裏庭は随分と様変わりしていた。どこから取り寄せたのか、明らかにこの国の物ではない――確か提灯とか言った気がする――装飾が頭上にたくさんぶら下げられていて、風にぷらぷらゆらゆらと暢気に揺れていた。真昼間なので照明としての意味はないが、鮮やかな色使いが青空に映えて眩しかった。
 赤いレンガやらオリーブの木やらに埋め尽くされた街からすれば、浮いていることこの上ないだろう。
 でも、子供達の言うところの『祭』という単語にはぴったりの光景だった。

「……これ、本当にマフィアですか……?」

 予想以上の事態に呆然としつつ呟いたのは、歳の程は15・6くらいの栗色の髪の少年だった。どこにでもいそうな、普通の少年。知らず知らずのうちに子供達を追って屋敷に帰って来てしまった骸が、苦し紛れにとった姿だった。
 かと言って目的があったわけでもないので、何をするでもなしに人々の喧騒を眺めているだけだ。

「ほれそこの若いの! たんと食べな!」

 祭ならではの軽いノリで声をかけられそちらを振り向けば、以前街で見掛けた看板職人だった。いかにも職人気質な彼の隣では、どう見ても貴族だろう婦人がにこやかに笑んでいる。この場においては身分も何も関係ないようだ。
「え、あぁ、はい、どうも……」
 ほれほれ、と小皿を寄越され、既視感を覚えながらおざなりに受け取る。皿には丁寧に握られた寿司と、これまたイタリアでは珍しい箸とが乗っていた。寿司ネタは赤身だが、魚に詳しくない骸には種類まではわからない。あれだけ気になった生臭さが一切なく、適度に脂ののった身が美しい断面をてかてかと太陽にさらしていた。
 腕の良し悪しなんて理解できないし興味もないが、あの雨のことだ、それなりの腕なのだろう。
 実際、周りで談話する老若男女、貴族から貧民層まで皆平等に笑顔が絶えなかった。元々平和な街だったこともあるのだろうが、なかなか貴重な光景だ。
 それに、たまに聞こえてくるジョットの評判は、悪くないどころか褒めたたえるものばかりだった。とは言え、聖人君子のように崇められるのではなく、あくまでウチの子自慢的なちっぽけな事柄ばかり。ジョットがどのように街を愛し、また愛されているのかがよくわかった。
「まったく、あなたという人は」
 らし過ぎてどうしようもない。
 苦笑いを浮かべて、手の中の寿司を見つめる。まさかイタリアでこんなものを見るとは思いもしなかった。
「ボスぅ、今度は小皿が足りねぇ!」
「あー……っと、そうだ! 倉庫に使ったことない燭台たくさんあったよな! あれちょこちょこっと分解して使っちゃったらどうかな」
「さ、さすがにそれはちょっと……」
 遠くの方で忙しなく動き回る小柄な影は、とても生き生きとしていた。
「クフフ、本当に、あなたらしいですね」
 仕方ないから、食べてあげますよ。
 自然な動きで箸を使い、食べるのは初めての寿司を口に放り込む。

「………………っ……!?」

 つーん!!!!

「〜〜っ!? っっっ!!??」
(こ、これはっ!?)


「か、辛ぇぇぇぇぇ!!」


 舌を襲った強烈な刺激に悶える骸のすぐ後ろから、骸の心情そのままの叫びが聞こえた。
「……な!?」
 心を読まれたような錯覚に驚いて振り返れば、先程の子供達がそろって奇行に走っていた。
 金髪の少年は隠す気もないのか叫びながらごろごろと転げ回り、黒髪の少年は無言で口を押さえて時々咳き込み、一番年下らしい少女は大きな目を潤ませてかたかたぷるぷる震えていた。
 どうやら今の骸と同じ状況らしい。
「…………」
 あっちもこっちも、何ともアホらしい。
 この独特のつーんと来る辛みは、おそらくワサビだ。寿司とワサビは大抵ワンセットだと言うことを失念していた。
(辛い……辛い辛い辛いっ……あぁもうっ、辛い!)
 おいしいとかまずいとか、そういう問題ではなかった。
 小皿に残ったもう1つを恨めしげに見つめる。散々走ったせいか正直空腹を感じてはいるのだが、また同じ思いをするのはさすがに嫌だ。
 ちらりと見れば、子供3人もまた恨めしげに自分達の皿を見つめていた。身なりが良くないことからして、満腹とは縁遠い生活を送っているのだろう。耳を澄ませば、きゅるるぅ、とかわいらしい音まで聞こえて来た。
「……はぁ……」
 小さくため息をつくと、骸は人だかりの中へ割って入って行った。

















「あの。ワサビ抜きを3人前、お願いします」

「おぅよ!」
 手早く(一般人には見えないくらい)握ってあっと言う間に中皿を寿司でいっぱいにすると、雨は白い歯を輝かせてそれを骸に差し出した。これだけたくさんの人に囲まれ、大量の寿司を握り続けていると言うのに、疲れた様子など微塵も見られなかった。
「ありがとうございます」
「おぅよ! たくさん食べてくれな〜……って、ん? あれ、今の――」
 あえて特徴を消している骸の姿は、すぐに人ゴミの中に紛れて見えなくなった。















「おーい、これでどう?」
 追加の皿(分解した燭台)を両手いっぱいに抱えて、ジョットがのほほんと人だかりの中を歩む。畏怖ゆえなどではなく、純粋に邪魔にならぬようにとの気遣いで自然と人が避けて道を作った。
「お、ありがとな〜。けどこれ本当に皿か?」
 明らかに中央に何か出っ張りを溶かして平にしたような跡が残るそれらを受け取って、雨はなんとも言えない笑みを浮かべた。
「ん〜……みたいなもんってことでよろしく」
「はは、なんだそりゃ!」
 中には細かい彫刻の施された柄つきの物まである。骸あたりなら『脳みそ溶けてるんじゃないですか』とか辛辣な言葉をたたき付けてきそうだ。
「あ、そうだ、骸と言えばさぁ――」






















「こちらは辛くないですよ」
 す、とさりげなく差し出されたそれに、少年と少女は話し合いをやめて不思議そうに首を傾げた。
「んぁ?」
「……誰」
「……?」
 予想通り、警戒心を隠しもしない少年達がすぐに末っ子の少女を庇うように前に出る。
 その様子に骸はくすりと軽く笑って、借り物の顔を出来るだけ幼い印象に微笑ませた。こういう時は、できるだけ年齢が近い方が打ち解けやすいものだ。
「ワサビ、僕も嫌いなんですよ。なんであんなに辛いんでしょうね」
「……」
 少年達はじろじろと骸と皿とを交互に見つめ、それからくるりと背を向けてまた何事か相談し始めた。
 本人達は真剣そのものだが、相談の内容は結局のところ骸が持って来た寿司を食べるか食べないかだ。
 そこへ更に、きゅるるぅ〜、と何とも情けない音が3つ、微妙な不協和音を奏でた。
 骸は堪らずクスクスと声を漏らして笑い出す。
「ぷ、クフフ……! 安心なさい、毒など入っていませんし、これは施しとは違いますよ。少しだけ……そう、ほんの少し懐かしい夢を見させてくれたことへのお礼です」
 3人はわけがわからないと揃って首を傾げたが、そのうち空腹が勝ったのか怖ず怖ずと黒髪の少年が手を出して皿を受け取った。
「……ありがと」
 3人を代表して少女が小さな声で礼を言うと、彼らは嬉しそうに皿を持って駆けて行った。
 きっと慣れない箸で悪戦苦闘しながら、でも笑いながら食べるのだろう。

「……いい夢、でしたよ」

 もう決して叶わない夢。それでも、見れて良かったと思う。

「む〜くろっ!」

 ぽん、といきなり頭を叩かれた。びくり、と瞬間的に肩が震えた。
「っ……だから、どうしてあなたはそう――!」
 聞き慣れた子供っぽい声に、あぁもうっ、と頭に置かれた手を振り払う。
「あのねぇ、手がめり込んでるんですってば! それ以前に、気配を消して近づくなんて悪趣味ですよジョット!」
 振り向けば、一応の上司が寿司の乗った皿を片手にからからと無邪気に笑っていた。
「気付かないそっちが悪いんだろ? まだまだ甘いな!」
 そう言ってまた懲りずに骸の頭に手を伸ばして来る。
「や、やめなさいってば!」
 その手を避けようと身をよじるも、ジョットの手はまるで骸の本当の身体が見えているかの正確さで追って来た。
「だいじょぶだいじょぶ、誰も見てないって、ほら」
 いつにないしつこさに、骸は観念したように動くのをやめた。わしゃわしゃとなすがままに頭を撫でられて、骸はくすぐったさと恥ずかしさに眉を寄せた。
 この人は、自分がどんな姿をしていても気付くのだろうか。

「……はぁ……」

 大人しくなった骸を微笑ましく思いながら、ジョットは持っていた皿を差し出した。
「これ、ワサビ抜きだから。俺も実はワサビ苦手なんだよね。あのつーんって感じが慣れなくてさ〜」
 雨には悪いんだけどな、と箸も2膳取り出して片方を骸に差し出す。

「一緒に食べよ、骸!」



 柔らかな日差しの中、二人はたわいない幸せを噛み締めた。





















「ところでジョット。このお皿、随分変わってますけど……」
「あ、これ? 皿が足りなくなったから倉庫にあった燭台を分解して、尖ったとこ溶かして作ったんだ! なんかちょっとお洒落だろ〜!」
「…………こ、この――!!」
「ん?」

「脳みそ溶けてるんじゃないですかっ!?」

























最初のプロット→『雨さんのお寿司→わさび辛い→マジ辛い→骸食べれない』以上。
自分アホじゃないの!? っていうか、これプロットって言わないから!!
そしてそんな適当なプロットだから話もどんどん長くなって、ギャグ調からシリアスになったりほのぼのになったりと忙しくなっちゃうんですよね。
あと、今回どうでもいいおまけがあります。→おまけ

2008.5.19