02.
「十代目候補。今日こそ試練を乗り越え下さいますよう、我ら一同願っております」
そんな勝手なことを言って頭を下げた一団は、やはり骸にとっては取るに足らないものだった。
『こんなやつらのために君は苦しんでいたのですか?』
『…俺にとっては家族同然の人たちだったんだ。…昔はね』
『なら、今は?』
『…わからないんです。俺はみんなのことが好きだけど、みんなが好きなのは俺じゃなくてボンゴレ十代目だから。誰も俺を…沢田綱吉を見てはいないんだ』
脳裏で交わされる会話は、当然ながら外には聞こえない。そして、車に乗せられてからずっと沈黙する綱吉を、誰も気に留めてなどいなかった。家族だったという彼らは、綱吉の苦悩に気づいてすらいないのだろうか。
『君が願うなら、今この場で彼らを消すことなどたやすい。ねぇ綱吉くん。もう一度よく考えて。君が苦しまずに済む方法を』
骸の言葉は強い力を持つ。綱吉では抗うことなどできないほどに強く確かで、甘美だった。でもそれだけではない。骸は”考えろ”と言った。”願え”ではなく、”考えろ”と。綱吉が抗えないことを知りながら、それでも綱吉の意思を尊重しようとしてくれているのだ。そんな気遣いが、今の綱吉には温かい。
『優しいね、骸さん。でも、やっぱり駄目だよ。俺は過去の思い出を否定しきれない。白か黒かなんて決められないんだ。俺は弱くて卑怯だから、常に灰色を選んでしまう』
『…人間は難しいですねぇ。あえて苦しい道を選ぶあたり、理解できませんよ』
そう言いながらも、骸の声は決して突き放したものではなかった。
「十代目候補、到着致しました。お降り下さい」
小さく溜め息をついて、綱吉ーーー骸は優雅な所作で車を降りた。
「それで? 今回の任務は?」
降ろされたのは廃工場と思しき暗い一角だった。マフィアにはお似合い過ぎて笑えないよ、とは綱吉の感想だが、マフィアだの廃工場だのがいまいちぴんと来ない骸にとってはどうでもよかった。
「…はい。奥に敵対ファミリーのスパイを捕えております。後はあなた様の手でーーー」
「殺ればいいんでしょ? さっさと案内してよ。ここ、埃っぽくて気持ち悪いや」
いつになく冷たい目をした綱吉に、男は不審げに目を細めたが、口に出すことはしなかった。そちらの方が十代目として望ましいのは確かなのだ。
「…では、どうぞこちらへ」
硬い声で先導する男に続きながら、骸は綱吉の揺れる心を感じていた。
『動揺は真っ先に伝わりますよ、綱吉くん』
『…すいません』
『別に責めてるわけではありません。ですが、そんなにお嫌なら少しの間眠っていたらどうです?』
綱吉の動揺が深まるのを、骸は微笑ましく思った。本当は今すぐにでも逃げ出してしまいたいのだろうに、彼は自らの意思でそれを抑え込んだのだ。
『君を苦しめるのは本意ではない。そのために僕がいるのをお忘れなく』
『…いえ、いいんです。ここで逃げたら、それこそ俺は誰にも必要とされない。必要とされる資格すらなくなる。逃げ続けの俺だけど、全てを押し付けてあなたから逃げるなんて、俺にはできません』
『クフフ、なるほど? 逃げる…とは、言い得て妙ですね』
骸は満足気に笑んだ。綱吉の言葉は、なかなかどうして、的を射ているものだと思う。
「…どうかなさいましたか、十代目候補」
微笑が視界の端にでも入ったのだろう、先を行く男がちらりと視線を寄越した。暗に何を笑っているのかと咎める意味もあるのか、どこかじっとりとした目だった。
「ううん、別に。ただ、今日で十代目に就任できると思うと嬉しくてさ。…ごめん、笑ってる場合じゃないよね」
内心笑いを堪えて骸は綱吉らしく答えた。実に馬鹿馬鹿しい事態だと言うのに、彼らは全く気付いていないのだ。それはひどく滑稽で、そして許しがたい。
「………こちらです」
男は憮然とした表情で倉庫らしき扉を指した。その両脇には同じような黒服の男たちが待機していて、重苦しい鉄の扉を開ける。巨大な口のようにも見えるその暗闇は、綱吉を誘っているかのように風を吸い込んでいた。
迷わず奥へ進めば、暗がりの中にいくつもの黒い人影がさざ波のように揺れ動いて綱吉をーーー正確には骸を、迎えた。
『君という砂糖にたかる蟻の群れか何かみたいですねぇ。端から踏み潰したくなる』
骸の恐ろしい軽口にも、綱吉は反応しない。伝わってくるのは、強い恐怖と戸惑い、そして悲しみだ。
綱吉の意識は真っ直ぐに群れの中央、椅子に縛り付けられた男に注がれていた。この前とは違い、見知らぬ顔だった。でも、だからと言って安心するなんてこと、綱吉にはできるはずもない。
『おやおや、ひどいことをする。自由を奪われるのって、結構つらいんですよ』
冗談か本気か判別できない感情の見えぬ声は、綱吉を更に揺らがせた。
『クフフ、優しい綱吉くん、そんなに惑うことはありませんよ。あなたの好きなようにすればいい。彼を生かすも殺すもあなた次第。他の連中なんて関係ない』
『で、でも…』
『簡単なことです。彼の命と君に課された使命。その2つを天秤にかけなさい。僕からすれば、どちらも些細なこと。君の意志こそが重要なのです』
綱吉が結論を出せないうちに、黒い波のような男たちは綱吉と哀れな生贄を囲み、退路を絶った。冷たいのに焼けるような視線が綱吉に集う。彼らは静かに待っていた。綱吉の決断を。すなわち、生贄の死を。
畏縮するしかない綱吉の心は、極度の不安と緊張で今にも壊れそうだった。骸の陰に隠れていても、彼らの視線は綱吉を責め立てる。
「十代目候補、これをお使い下さい」
そんなこととは気付かぬまま、案内役の男は骸に黒光りする拳銃を差し出した。骸は初めて見るそれを矯めつ眇めつして、興味津々といった様子で受け取った。
『綱吉くん、これどうやって使うんですか?』
『………そこの出っ張りを起こして…、そっちのトリガーを引けば、弾が出る。人が、死ぬ』
『とりがー? あ、これですか?』
骸は天に向けて言われた通りの手順を踏む。
ガゥン…
轟音を合図に、場の空気が一瞬にして変わった。嫌な緊張感と、微かな期待。皆、微動だにしない。
『あぁなるほど、以前見たものに似てますね。あれはもっと豆鉄砲みたいな威力でしたけど』
くすくすと楽しげに笑って、骸は無造作に銃口を縛られた男の額に向けた。
『む、骸さん…!!』
呼吸すらできないような息苦しさの中で、綱吉の音のない叫びだけが密やかに響く。身体があればひどく擦れた耳障りな声になっていただろう。感情がそのまま伝わる今は、それはもう酷い“声”だった。
『綱吉くん、人なんて簡単に死ぬんですよ。例えばそう、今僕が撃てば彼が死ぬように、周りにいる蟻どもが撃てば、君は死ぬ』
『…え…?』
綱吉の声が疑問に震える。何を言っているのかと、問いたかった。でも、その血に宿る超直感はひとつの事実を示していた。気付こうとしなかっただけで、ずっと警告していたのかもしれない。その、事実を。
『な、何…? なんで…なんでみんな、俺を狙ってるの…?』
黒い波に紛れて複数の銃口が綱吉に向けられていた。ぐるりと檻のように取り囲んで、逃がさぬように、行かさぬように、生かさぬように…。
『天秤にかけるものが増えてしまいましたね。彼の命か、君と愚かな人間たちの命か』
縛られた男を生かせば、綱吉は撃たれる。いや、必要のないものとして始末される。そんなこと、骸が許すはずもない。比べるべくもない、比べられる余地もない。骸はそう言っていた。
その上で、まだ綱吉の意思を問うた。
『さあ、どちらを取るんです?』
ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
助けて、誰か。
助けて、神様ーーー。
助けて、骸さん…!!
「クフフ。その願い、確かに承りましたよ、綱吉くん」
大丈夫。君は僕が護ってあげます。
ほら、ね?
ガゥ……ン
「六道骸、沢田はどうしたの」
校門に寄り掛かってこちらを睨み付ける影がひとつ。真っ直ぐな眼差しは嫌いではないけれど、今は彼を怯えさせてしまうだけだ。望ましくはない。
「雲雀恭弥、そんな鋭い視線で見つめないで。彼が怖がっていますよ」
「…は? 何を言っているのか意味不明だよ。それより、沢田に何をしたの。今日ずっと出て来なかったのはどうして」
よく観察しているものだと呆れながら、骸は心の奥に意識をやる。綱吉はーーーまだ駄目だ。可哀相に、骸の魂に縋り付き、消えそうなほどに弱っている。
「綱吉くん、大丈夫、大丈夫ですよ。僕がついていますから、安心して下さい」
優しく囁かれた言葉に、雲雀が目を見開く。
「…なんなの、君。何を考えてるの!」
「クフフ、綱吉くんのことを、ですよ。他に何があると言うんです?」
不敵に嗤えば、雲雀はどんどん険しい表情になっていく。そういう表情をすると、小さな頃の面影が特に強く出てくることに、本人は気付いているのだろうか。そういう真っ直ぐなところを、骸は嫌いではなかったけれど。
「悪いですが、今はあなたに構っている暇はない。遊ぶのはまた今度にして下さいね」
その物言いに雲雀の身体が思わず動く。右のトンファーが、唸った。
しかしーーー
ヒュッ
その一撃は、綱吉の身体を虚しく透り抜けた。
幻術。六道骸が得意とする、忌々しい力。
「…ああ、違いますよ、綱吉くん。今のは君を狙ったわけではなくて、あくまで僕に対する牽制。子犬が大きな犬に吠えるようなものです。ーーーそう、大丈夫、いい子ですね」
恐らく中の綱吉と話しているのだろうが、雲雀には意味がわからなかった。大体、骸がそんな優しい声で話すなど、信じられないーーーいや、信じたくなどなかった。
「何がどうなってるの、君達は…! 沢田に何があった!」
「あなたに答える義理はないですしねぇ。綱吉くんも言いたくないそうですよ」
くすくすと愉悦を滲ませながら、綱吉の薄茶のはずの右目が紅く輝いた。
それは雲雀にとっては見覚えのある色だった。あの日から脳裏に焼き付いて常に付き纏っていた、残虐な紅。
忘れもしない。忘れてなるものか。それが今、綱吉の右目を塗りつぶしているなんて、耐えられない。
「沢田から出て行って…!」
「おやおや、怖い怖い…クフフ」
恐怖など微塵も出さぬ骸の周りを、桜の花びらが舞う。真白い、狂桜が。
「くっ…ぅ」
世界が揺れる感覚に、雲雀の身体が傾ぐ。
「…っ!」
だが、骸の前で地に膝をつけることだけは許容できなかった。校門に縋り付いてでも、トンファーで足を地に縫い付けてでも、それだけはーーー。
「僕に突っ掛かるのはいいですけど、その桜嫌い、治した方がいいんじゃないですか? 見ていて可哀相になってきますよ」
厭味たらしく微笑むと、骸は雲雀など眼中にないかのようにその脇をすりぬけて歩き出す。
「…待て、六道骸…!」
屈辱を隠せぬ雲雀の声に、しかし骸は足を止めることはなかった。
「そんな弱々しい言霊じゃ僕は縛れませんよ。じゃあね、雲雀さん?」
ゆっくりと遠ざかるその背を、雲雀は唇を噛み締めて見送ることしかできなかった。
「ボス、十代目候補に関してご報告が」
「…聞きましょう」
慣れた様子で部下の報告を聞く老人は、ひどく優しい目をしていた。だが、その実はマフィアのトップにしてボンゴレ九代目、時代の闇を生きて来た男だった。もう騙し騙されるこの世界にはいささか疲れ切っていたけれど。
そして沢田綱吉のボンゴレ十代目就任の儀式成功の報告に、その皺だらけの顔を悲しげに歪ませた。
「…そうか。あの子は、ついに達成してしまったか…」
「はい、残念ながら。それと、気になることがいくつか」
「…ふむ」
「あの場にはザンザス派の者達が多数混じっておりました。その中には彼を…綱吉殿を亡き者にせんと企む輩も少なからず存在したのは確かです。我々はこの身を楯にしてでも綱吉殿を護る所存でありましたが、綱吉殿は彼らに気付いておられたようでした」
「ほお」
「それともう一つ。綱吉殿の醸す雰囲気とでも言いましょうか、少し…あの方らしからぬ邪なものを感じました。あくまで私感の域を出ませんが」
「……邪…とはいかに」
九代目の知る綱吉は、幼い頃からマフィアの中にいながら、純粋で真っ直ぐで、優しい心の持ち主だった。その彼に銃を持たせたのは、優しい彼を修羅の道へ誘ったのは、己なのだ。邪悪であるのは、彼ではなかったはずなのに。
「…明確には申せません。ただ、どうしてもあの光景が焼き付いて離れないのです。彼が引き金を引いた時、確かに…嗤って、おられました…」
優しい綱吉。虫も殺せない綱吉。小さな頃からずっと側にいて、常に見守り続けてきた子供。マフィアに人一倍向かなくて、しかし誰よりもボスにふさわしかった。だからこそ心を凍らせて接した。冷たいマフィアか、明るい日常か、選ばせるために。
だが、それがまさかこのようなことになるとは…。
「……あの子に、何が…」
「いいんですか? 家に帰らなくて」
もう辺りは真っ暗だった。頭上の真白い桜はぼんやりと輝いて、綱吉をーーー骸を照らしていたけれど。
「……あまり深く考える必要はありませんよ。あなたは表の世界の沢田綱吉であればいい。ごく普通に、平和に暮らしなさい。裏の世界は僕に任せて。表と裏は、決して交わらないのだから」
『…それじゃ骸さん、独りだよ。俺はあなたを独りにしない。だからあなたも、俺を独りにしないで…』
ようやく帰って来たか細い思念は、ひどく不安定で今にも消えてしまいそうだった。
これでは骸がいる意味がない。こうならないために骸がいるのに。そのための契約なのに。
「その前にあなたが消えてしまいそうですよ」
そうなったら、どうすればいいのかわからない。今の骸にとっては、存在意義を失うのと同義だった。考えられない。考えたくない。
「……消えるのは、契約違反だ。僕はあなたの身体だけが欲しいわけじゃない。どうかそれを忘れないで」
『忘れてなんて、いないよ。大丈夫、消えないよ…。ちゃんと俺の全てを骸さんにあげるよ。だから、そんな悲しそうにしないで、骸さん…』
言霊なんて綱吉は使えない。
でも、どうしてだろう。誰の言葉よりも骸の心を縛りつけてくる、心地の良い呪縛。
彼を手放したくない。
彼に手放されたくない。
「…約束、ですよ」
『うん、約束…』
「絶対、守ってくださいよ…?」
『うん、絶対…』
「…本当に?」
『大丈夫。他の誰が裏切っても、俺は骸さんを裏切らないよ。いつまでもあなたの傍にいる』
ずっとここにいるよ。
そう誓った矢先、綱吉の携帯電話が震えて着信を告げた。
また今日も、この手は血に濡れるのか。
次へ