01.




 小さな身体が風を切る。いつだったか「廊下は走っちゃいけません!」と誰かに怒られた記憶があるが、今はどうでもよかった。

「あら、骸坊ちゃん?」

 ランドリー室からタオルの山を抱えて出て来た年かさのメイドが骸に気付き、声をかける。
「!」
 骸はハッとすると即座に彼女の胸に飛び込んだ。
「あらあらまあまあ」
 かなりの勢いで抱き着かれた――もはやタックルと言っていい――ため、真っ白でふかふかのタオルは辺りに散乱してしまった。メイドの仕事を台なしにしたことになるが、骸はぎゅっと彼女の腰にしがみつき、一向に謝る様子はない。彼女もまた、叱ることはなかった。
「今日はどうされました? またボスが坊ちゃんを置いて仕事に行ってしまいましたか?」
 ふんわりと穏やかな印象のメイドが殊更に優しく尋ねれば、骸は彼女の胸の中でこくりと頷く。ああ予想通りだわ、とメイドは苦笑した。外部には決して漏らさないことだが、ボンゴレ内部では日常茶飯事として受け止められている事態のひとつだ。
 今現在、ボンゴレファミリーはある意味で骸を中心として動いているようなものだった。何と言っても、ボンゴレのボスである綱吉の予定は骸の一挙手一投足に左右されるのだ。骸を悲しませないために仕事を早く終わらせ、骸をひとりにしないために守護者たちのスケジュールを調整し、骸を怒らせないために出張時には必ず甘い土産物を買って帰る――。骸に愛情を伝えるためならと、綱吉は日々奔走していた。まるで罪滅ぼしのように。
 そこにいたるまでの道程を知る者は、誰もそれを咎めようとはしなかった。知らぬ者も、綱吉が時折見せる切羽詰まった表情を前にすれば、咎めることなど出来なかった。事情はわからずとも、感じるものはあったのだ。ただしそれは、あくまで綱吉に対するもので、骸に対するものではない。特別なのは綱吉であって、骸ではなかった。
「――それはお淋しゅうございますわね。守護者の方は……ああ、今日は皆様お出になっていらっしゃるんでしたわ。いつもはいらっしゃる獄寺様も、今日はボスと一緒に出てしまわれますしねぇ。お可哀相に、さぞや辛いことでしょう」
 年かさのメイドは、肩を振るわせ始めた骸の背をゆっくりと撫でてやった。けれど骸の震えはどんどん大きくなって、しゃくり上げるような動きに変わってしまう。このままでは堰を切るのも時間の問題に思えて、彼女は何度も何度も骸の背を撫でた。そうしながらも、頭の中では忙しなく幹部の予定を思い出す。
「……ああ、そうでした! 城島様と柿本様がもうすぐ……いえ、もうお帰りになっている頃かしら。――メイリア、お二方をここへお呼びして。骸坊ちゃんが淋しがっているとお伝えすればいいわ」
 年かさのメイドは通り掛かった別の若いメイドに指示を出す。メイリアと呼ばれた彼女は骸の姿を見てすぐに状況を察し、色素の薄いプラチナブロンドを揺らして素早く頷いた。
「了解いたしました、パメラ婦長。――骸坊ちゃん、少しの辛抱でございますよ」
 メイリアは普段はしないようなパタパタとした走り方で、とにかく速ければいいとばかりに駆けていった。こと骸に関する時に限っては、とにかく急がねばならないのだ。それは暗黙の了解であり、もはやボンゴレの基本ルールだった。そのためならば、廊下を走るのもやむなし。道を塞ぐものがあらば、早々に脇に寄らねばならない。まるでお茶壺道中だ。
「さあさ、坊ちゃん。もうすぐですよ。城島様も柿本様も、坊ちゃんのためならばすぐに駆け付けてくださいますわ。お二方とも坊ちゃんを大層愛していらっしゃいますもの」
「……っ?」
 本当?とでも言いたげに、骸はふいに顔を上げた。目尻からはぽたりと輝きが落ち、大きな目は波打っていた。
「ええ、本当でございますよ。それに、恐れ多いことですが、私めも骸坊ちゃんを大切に思っておりますわ。こんなに愛らしい御子を誰が愛さずにおられますか。ほら、涙をお拭きしましょうね」
 ボンゴレのメイド長を努める彼女、パメラはひとつだけ腕に引っ掛かって無事だったタオルで骸の目許を拭う。赤子にするかのような丁寧さだった。
「皆、おそばにおりますよ。坊ちゃんはひとりではありません。さ、呼吸を落ち着けて。メイリアは近道を知っていますから、もうすぐですわ。――ああ、ほら」

「骸しゃーんっ!! たっらいまー!!」

 ずだだだ、と絨毯を抉る勢いで駆け込んで来たのは、ぴんぴんと跳ねる髪をヘアピンでざっくばらんに押さえている青年――犬だった。
「犬、うるさいよ」
 その後からは音もなく慌てたふうもなく急ぐという不可思議なことを難無くやってのけている青年、千種が続く。
「っ!」
 骸はコインを返すように顔を明るくして、パメラの腕の中から飛び出した。あまりの勢いにくすくすと笑う彼女を背に、骸はブレーキを忘れて犬の胸にそのまま飛び込んだ。
「んおっ、骸さん、また少し大きくなったびょん!」骸の身体を危なげなく受け止めて、犬は満面の笑みを浮かべる。
「ちゃんと食べて、ちゃんとケンコーにしてたんれすね! 偉いびょん、骸さん!」
「っ、っ! っ!」
 骸の頭をがしがしと乱暴に撫でながら褒めれば、骸は盛んに頷いた。
「犬、骸様の髪がぐしゃぐしゃになってるよ」
 少し遅れて傍に来た千種はため息がちに告げる。淡々とした声音だが、彼をよく知る者が聞いたら驚愕するくらいに節々が柔らかい。感情を表に出すことが苦手な千種であっても、心からの愛情は自然と溢れて幼子に注がれるようだ。それが人一倍愛情に敏感な骸に伝わらないはずもなく、骸はとろけそうな笑顔を見せる。
「むっ……」
 犬にしてみると、なんとなく面白くなかった。
「柿ぴー、うっぜーの!」
「なに、嫉妬?」
「む、むっかー!! ふんっだ、ふんっだ! 骸さん、俺のこと好きれすよね!? 大好きれすよね!?」
 鬼気迫る物言いだったが、対する骸は穏やかに頷いて、「きゃんっ!?」犬の頬にキスを贈った。
「……う、うーっ、あうあ〜」
 犬は腰が抜けたようにへなへなとしゃがみ込んでしまう。もちろん、骸ごとだ。
「あらあら、ふふふっ」
 傍で見ていたパメラは、楽しげに笑いながらも手早くと散らばったタオルを拾い上げる。骸と犬と千種、それに今ここにはいないクロームやランチアの間には、他の誰にも入ることの許されない絆があった。それをよく知っているからこそ、彼女は山盛りのタオルを手に早々にその場を立ち去った。
 後には放心状態から興奮状態に移行しつつある犬と、おとなしく抱き枕のようになっている骸、それに棒立ちの千種だけが残される。
「う、うーっ、うあーっ! 骸しゃんっ、ああああ大好きだびょんッ大好きだびょんッ!!」
 耳まで真っ赤にした犬は見えない尻尾をぐいんぐいんと振り回して骸を掻き抱いた。
「……………………」
 一方、千種は無言でぐっと眉をしかめていた。眼鏡のフレームを何度も無意味に上げ、視線を散らす。彼にしては珍しく、とてもとても珍しく、本気でムッとしているようだ。
「――んぅ? 骸さん?」
 犬がきょとんとして腕の中の骸に目を合わせる。はしゃぐ犬の背中を骸の小さな手がぽすぽすと叩いたのだ。
「どーしたんれすか?」
「…………」
 骸の手が、そっと千種の服の裾を握る。
「ん? ……ああ、なんら。柿ぴーはこっちな!」
 犬はしょーがねーなと骸の背に回していた左腕を開き、来い来いと千種を招いた。
「…………」
 千種は少しの迷いを見せる。けれど骸がそれを拒絶ととったのか怯えたように表情を固めると、すぐにしゃがみ込み、犬の隣で骸を抱いた。
「……ただいま、骸様。俺も、犬に負けないくらい骸様のことが大好きですから」
「……っ」
 骸はまた顔を綻ばせて、ちゅ、と千種の頬に口付けた。
「おお! 柿ぴー、顔真っ赤! ちょー真っ赤! ダッセーの!」
「お前も似たようなものだろ」
「っ、っ!」
 ゆでダコ状態の二人の間で、骸はくすくすと楽しそうに笑う。
 煮詰めた蜂蜜に浸かったような、甘くて幸せな時間だった。

(こんな時間が訪れるなんて、あの時は思いもしなかった)

 千種は頬に熱を感じながら、思い出す。
 それは、今から約一年前、骸が死んで六年が経過した頃のことだった。





















2009.10.8




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