汝、人の子なれば




 その日、いつもと変わらぬはずの執務室は少しピリピリとしていた。空調が効いているはずなのに、肌寒い。骸が来ているのだ。
「あ、あのさ、骸」
 突き刺さるような緊張感の中、綱吉はどうにか言葉を紡いだ。
「この情報、どうやって調べたの?」
 綱吉の手には、現在敵対しかけているファミリーの詳細な構成情報があった。ザネッティ・ファミリー。強行姿勢を崩さない、昔ながらのマフィアだ。歴史があればあるほど、その秘める情報も多くなる。その結果、厚さ数cmにも及ぶ書類が机の上に積み上がっていた。何とはなしに、ぱらぱらとめくる。構成員ひとりひとりの名前、その家族の名前、過去の経歴、住所、連絡先、恋人の有無、恋人の名前、その住所、ペットの有無、財産、人員配置、得意分野、武器の数、企業との繋がり、エトセトラエトセトラ。これだけ情報があれば、戦わずして相手を降伏させることが出来るだろう。もちろん、そのためにはえげつない手段を使うことになるが。
 さて、ではこの “えげつない” 情報は、果たしてどのように得られたものなのか。綱吉は不安だった。嫌な予感がしていた。
「別に――」
 執務机の正面に立つ骸が口を開く。上下を黒に揃え、立ち姿には一部の隙もない。ひとつに束ねた長髪はゆらゆらと意思なく揺れていた。
「拷問の類はしてませんよ。お優しい十代目は、非人道的手段とやらがお嫌いでしょう?」
 骸は水牢から出てもあまり変わらなかった細い腕をやれやれと振って見せた。皮肉った仕種だ。いや、よく考えれば、綱吉は彼の自然な仕種とやらを見たことがなかった。骸はずっとこうだった。水牢を出、ボンゴレ上層部に課せられた制約により連絡手段のすべてを奪われ、能力を制限するチップを脳に埋められ、守護者とは到底呼べないような境遇になってから。――ずっと、こうだった。
 綱吉は気圧されないよう拳を握りしめ、無理矢理に微笑んだ。
「じゃ、じゃあ、買収とかかなぁ? 支出欄に何も記述がないけど、自腹切ったんなら、ちゃんと出すから――」
「違いますよ。わかってるんじゃありませんか?」
 緊張が増した。骸の空虚な笑みと鋭い視線が綱吉を射抜いていた。危うい表情だと、一瞬のうちに悟った。
 束縛の身になってから、骸は人を殺めなくなった。無意味に傷付けなくなった。けれどそれは、決して丸くなったわけではなかった。むしろ逆だ。鞘に入っていたはずのナイフが、今は抜き身になってぷらぷらしている。犬や千種、クロームといった、骸本人は認めずとも確かに仲間であった者たちと分かたれて、骸は変わってしまった。人を傷付けない代わりに、愛もなく人を求めるようになった。綱吉は知っていた。――骸は一夜の戯れを繰り返し、情報を得ているのだと。
「……信じたくないから、言ってるんじゃないか」
「はっ、非生産的ですねぇ。……まあ、どうでもいいですが」
 どうでもいい。それは骸がよく使うようになった言葉だった。元々骸は好奇心旺盛なタイプではなかったけれど、今は何もかもに興味をなくしているように見えた。無機質で、冷えきっている。綱吉にはそれが悲しくて仕方がなかった。綱吉は、人らしさを捨てきれない骸のことが好きだった。とても好きだった、のに。
「とにかく、ちゃんと合法的な手段をとってあげてるんですから、妙な勘繰りはやめてください。気分が悪い」
「……ごめん」
 綱吉は、心の底から謝罪した。こんな風にして、ごめん。ひとりにさせて、ごめん。大切なものを守ってやれなくて、ごめん。
「……ごめん、なさい」
 震える綱吉を鼻で笑って、骸は執務室を出ていった。







 ****







 それから三ヶ月が立った頃だった。ある女性からドン・ボンゴレあてに連絡があったのは。そして今、綱吉は青ざめた顔で骸を執務室に呼び出していた。
「一体なんの用ですか。食事中だったんですけど」
 部屋に入って早々、骸は不機嫌を隠しもせずに腕を組んだ。更には背中を扉に預け、綱吉を睥睨する。すぐ傍にソファーもテーブルもあるというのに、そこまで来る気はないようだ。仕方なく綱吉は座っていたソファーから立ち上がり、骸を手招いた。
「こっち、座って。ちゃんと話そう」
「長居する気はありませんので、このままで」
「大事な話だから」
「関係ありません」
「骸!」
「……」
 骸は渋々と腕を解き、ソファーにかけた。テーブルを挟んで綱吉と向き合う形だが、視線はてんで合わない。一刻も早く戻りたいのだと全身でアピールしてくる骸だが、綱吉は引き下がらなかった。
「今日、さる大ファミリーの御令嬢から連絡があったよ。気になる話だったから、その後直接会って話を聞いたんだ」
「へぇ」骸は気のない相槌を打つ。綱吉は眼光を強めて続けた。
「……彼女、言ったんだ。三ヶ月前、お前に抱かれたって」
「残念ながら候補が多過ぎて絞れませんね」
「妊娠したって言ってたぞ! お前の子だって……!」
「おやおや、そうですか。それは大変ですねぇ」
「真面目に聞け、骸!」
 どこまでも適当に流そうとする骸にカッとなり、綱吉は骸を怒鳴りつけてしまった。焦れったい思いが綱吉を支配していた。骸相手にこんな俗っぽい話をする日が来るなんて思いもしなかったのだ。違和感がひどいし、やる瀬ない。そんな綱吉の胸中も知らないで、骸は大きくため息をついた。しかめた眉の下で、ぎらつく眼光が綱吉を射る。
「……ひょっとして、責任をとれだとか、認知しろだとか、そういうくだらないお話ですか?」
「くだらなくなんかないだろ! 大事なことだ。とても。とても……!」
 骸の嫌悪を隠さない言葉に、綱吉は声を荒げずにはいられなかった。二人とも、もう制服を脱いで久しい身だ。責任がついて回る大人なのだ。
「……お前がそういう方法で情報を集めていることは知ってたさ。でも、こんな考え無しの行動だったなんて思わなかった! それとも、子供を育てる気があったのか? なかったなら避妊くらいしろよ!」
「くっ、避妊なんて言葉、君の口から聞くとは思いませんでした。いっそ愉快ですよ……くくっ」
 突然笑い出した骸に、綱吉は怒りに頬を染めた。
「いい加減にしろよ! 子供の命に関わることだ、ちゃんと考えろ!!」
「クッ、くはっ、クハハハハ! マフィアのくせに、何をモラリストぶってるんですか!? ああ、フェミニストならイタリア男らしいですけどねぇ! ははっ、クフフフッ、ぷっ、くくくっ……!」
 骸は腹を抱えて笑っていた。綱吉は急速に怒りが冷えていくのを感じた。冷えて冷えて、寒いくらいで、淋しくて、哀しい。そんなことで笑わないで欲しかった。見ていられなくて、綱吉は目を逸らした。
「くふふふっ――あぁ、そうそう、君もその女も勘違いをしているようですけど」
 笑いがおさまったのか、骸の声は冷静だった。冷めた口調で続ける。
「僕が何度女を抱こうとも、子を孕ませることなどないんですよ」
「……え?」
 意味を掴み損ねて、反応が遅れた。綱吉はぎこちなく視線を戻し、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる骸を見つめる。
「過去の実験の名残でね。僕の精子はヒトのそれとは違うんですよ。遺伝情報を持たず、ただ卵子を食い荒らすだけ。だから卵子に辿り着いたとしても決して受精しないし、子孫など残せない。わかりますか? クローンでも作らない限り、子供なんて出来るはずがないんですよ」
 さらりと言ってのけて、骸はまた少し笑った。感情の薄い笑いだった。
「僕がああいった方法で交渉する理由は簡単です。後腐れがないし、交渉ついでに性欲処理が出来るから。一度きりの逢瀬をロマンティックに演出してやれば、馬鹿な女たちは続きを求めないんですよ。僕も相手も気持ちよくなって、ボンゴレは情報を得られる。一石三鳥くらいになるわけです」
 でも。骸は険を混じらせた。
「だからこそ、こういうイレギュラーは気分が悪い……」
 綱吉はぞくりと背筋を震わせた。能力が抑えられているとはいえ、その紅い瞳は健在だ。そこに宿る異質な力も、なくなったわけではない。いや、例え能力のすべてを失ったとしても、骸ならばありとあらゆる手段を用いて目的を達するだろう。六道骸という存在には、それだけの力がある。綱吉は窺うように骸を見つめた。それに気付いたのか、骸は挑戦的に見つめ返す。
「別に、君が僕に責任をとれだとかくだらないことをしつこく言うようなら、戸籍をひとつ潰して認知なり結婚なりしてあげたっていいですよ。些細なことだ、どうだっていい。その女にも子供にも興味はありません。僕の前から消えてくれたなら、それが一番いい」
「……そ、れは……」
 綱吉は苦しげに呻いた。突き放した言葉に嘘はなく、骸は本当に“些細なこと”としてこの件を処理するつもりなのだろう。ざらざらしたものが胸に溜まる思いだった。それでいいのか。平凡な日本人の常識を根底に持つ綱吉は釈然としない。
「ところで、今日のお話はそれだけですか?」
 骸は淡々と告げると音もなく立ち上がった。
「なら、僕は部屋に戻ります。次にその女から連絡があった時は、僕に直接繋ぎなさい。ボンゴレの名を出して接近した相手なら、隠れたところで意味はありません。僕が直接話します。ボンゴレにはこれ以上迷惑はかけませんよ」
「――ま、待てよ!」
 綱吉は咄嗟に骸の腕を掴んでいた。引き止められた骸は眉をひそめて振り返る。苛立ちに満ちた目とかち合った。ごくりと唾を飲んで、綱吉は自分自身の気持ちを確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「……苦しいなら、言ってよ。救いには、なれないかもしれないけど。でも、力にはなれると思うから」
「……!」
 骸は一瞬、虚を突かれたように表情をなくした。けれど次の瞬間には、ひゅ、と急激に息を吸い込んで、同じ速度で思考を取り戻す。綱吉が見つめる中で、真っさらにリセットされた表情が余裕めいた笑みを作った。
「意味がわかりませんね」
 ご丁寧に肩まで揺らしてみせて、骸は完璧に作り上げた表情で微笑んだ。
「Arrivederci.」
 引き止める間もなく、綱吉の手をするりと振り払った骸はそのまま廊下へと消えた。

 骸の元へ一本の電話があったのは、その夜のことだった。







 ****







「あっ……」
 指定されたホテルの一室で、その女は待っていた。胸の前で組んだ手は美しく、白百合のようなホワイトシルクのツーピースが良く似合う。腰まで流れた金の髪は光の輪を描き、一目で籠の鳥のように大切に育てられたのだろうと窺えた。住む世界が違うことに、彼女は気付いているのだろうか。骸は内心で嘲笑い、失礼します、と奥へ進んだ。彼女は三ヶ月ぶりに見る骸の姿に何を思ったのか、薄く涙ぐんで微笑んだ。
「来てくれるって、信じてた……」
「そうですか」
 夢見がちな少女の瞳をする女に、骸は冷めた視線を向けた。一度見た顔と名前は覚えているはずだが、記憶の中を探るのも馬鹿らしく思えた。彼女は「座って」と骸を皮のソファーに促す。けれど骸は緩く首を振った。長居をする気はなかった。
「あ、あの、大切な話だから……」
 ああ、どこかで聞いた台詞だな。そう思いながら、骸はいつかと同じ言葉を返す。
「長居する気はありませんので、このままで」
「で、でも……」
 戸惑う彼女は上目遣いに骸を見つめる。大層愛らしい仕種だ。彼女の父やその部下たちは、その仕種ひとつでハイと言ったのだろうか。骸は鼻で笑って壁に背をもたれた。
「そこまで暇じゃないんですよ。用件だけ簡潔にお願いします」
「ご、ごめんなさい」
 両目を潤ませて、彼女は言った。
「あ、あのね。ドン・ボンゴレにはもうお伝えしているのだけど。私、あなたの子供を妊娠したの。ファミリー同士の関係にも関わることだと思って、お父様にはもう相談したわ。そうしたら、お父様は私たちのことを許してくださるって! ちゃんとボンゴレと同盟を結ぶから、陰でこそこそしなくていいって。だから、婚約だって――」
「待ちなさい。ドンに相談した、ですって?」
 都合よく進む話に待ったをかけて、骸は険しい表情を向けた。壁に預けていた背を離し、彼女の肩をわし掴む。
「きゃ……っ」
「許す? 僕と君との仲を? ボンゴレとの同盟ですって? 条件は?」
「え、わ、私、わからな――」
「世間知らずが。あなたのお父様はあなたを利用してボンゴレと有利な条件で同盟を結ぼうとしているのですよ。娘を傷物にされたとでも言えば、甘ったるい思想をお持ちのドン・ボンゴレはどんな条件でも頷くでしょう。僕があなたから得た情報で、ザネッティ・ファミリーはかなり傾いていましたからね。あちらも必死というわけだ。わかりますか? あなたは利用されてばかりのお人形なんですよ。いい加減に気付いたらどうですか」
「なにを言っているの? ジュリオさん、私……っ」
 ジュリオ、と呼ばれて骸は口の端を歪めた。
「それ、偽名ですよ。一応その名前で戸籍もありますから、情報料としてそちらを差し上げてもいい。だから僕とのことは忘れてください」
「そんな……! 酷いわ! この子の父親はあなたなのに……!」
「その勘違いから改めなければ納得しないようですね」
 失笑して、骸は突き飛ばすように彼女の肩を放した。歪めた表情のまま、告げる。
「僕は子供の作れない身体なんです。だからその子の父親は別にいるはずだ。ご自身が一番よくわかっておられるのでは?」
「わ、私、あなた以外に身体を許したことなんてありません……!」
「おや、そうですか。なら、想像妊娠か機械の故障あたりでしょう。とにかく、僕の子ではありません」
「そんな……!」
 淡々と突き放す骸に対し、彼女はみるみるうちに大きな瞳を潤ませた。その姿は世の男性の庇護欲を掻き立てるものだったが、骸の感情は石のように動かない。どうでもいい、さっさと部屋で眠りたい。そんな感想だ。彼女はついにはぽろぽろと透明な涙を零した。
「酷い……っ、酷いわ……! 絶対あなたの子よ! あなたと、私の……っ」
「だから、違いますって。戸籍なら適当なものを差し上げますから、無駄にごねないでくださいよ。育てる自信がないなら堕ろせばいいだけの話でしょう? 費用は負担しますよ」
 骸はそれだけ告げると、決まったら連絡を、とだけ残して早々に立ち去ろうとする。得るもののない面倒事に時間を割くほど、今の骸は気力を持て余していないのだ。
「ま、待って!!」
 慌てたのは彼女だ。流れた化粧で顔をぐちゃぐちゃにしながら必死に追い縋る。けれど、骸の背中に届きかけた手は、寸前で振り払われた。痛みを感じるほどの強さではなくとも、十分に痛かった。振り返った骸は物を見る目をしていた。
「……なんなんですか?」
「わ、私は! 私は、あなたの子供以外欲しくない! あなたとの子供だからこそ生みたいの! あなたが私を愛してくれた証よ! 堕ろすなんて出来ない……!」
 ヒステリーと出来立ての母性とをないまぜにした声音で、彼女は訴えた。真面目な青年や弱気な男なら即座に折れてしまいそうなほど、鬼気迫るものがあった。けれど骸は、そのどちらでもない。
「それで? 生まれた子が僕の子でなかったらどうなさるおつもりで? まあ、僕の子でないことはわかりきっていますから、仮定にすらなりませんけどね」
「そ、それは……」
「ねえ、生んだ後で捨てるんですか? それとも、どこぞのマフィアのように、人体実験にでも使うんですか?」
「そ、そんなことしないわ! だって、あなたの子供だもの……!」
 あなたの子供だもの。あなたの子供だもの。あなたの子供だもの。何度も何度も繰り返し、彼女は喉を震わせた。
「……埒が明きませんね」
 なんてめでたい思考だろうか。骸は嘲笑を堪えることも忘れ、くすくすと嗤った。けれどそれも数秒のことで、骸はほう、と息をついて微笑んだ。
「そうだ、いいことを思い付きましたよ」
 ただならぬ雰囲気に、彼女は目を見開いた。なに、と呟く。骸は帰ろうとしていた足を返し、身体ごと彼女に向き直った。
「今ここで、子供を取り出しましょうか」
「え……?」
 にこにことしながら、骸は一歩彼女に歩み寄った。彼女は反射的に一歩さがる。骸の方が歩幅が大きいため、それでも距離は縮まった。
「DNA鑑定にかけるんですよ。僕の子でないことが証明されたら、元々望まれなかった子だ、そのまま忘れてしまえばいい。もし万が一僕の子だったら、君は僕にとって貴重な存在だ。二人目を孕むまで何度だって抱いてあげましょう。そして僕の子を生めばいい。その時は、父親としてそれなりの責任をとりますよ。君のことも、心から愛してあげます。――ね、いい案でしょう?」
 また一歩、近寄る。
「そ、んなこと、私、そんな……いや、いやよ、怖い……! ねえ、なにを言っているの? あなた、変よ。狂ってるわ……!」
 彼女は一歩さがった。距離が近い。
「クハ、今更……」
「……!」
 また近寄る、またさがる。彼女の背中は、もう窓についていた。骸の手が届く距離だ。
「僕が狂っているのは元からですよ。今の今まで気付かなかったというなら、そちらの方が異常だ」
 骸はそれ以上近寄らず、ただ腕を差し伸べた。彼女の、腹に。
「こ、来ないで!!」
 咄嗟に骸の手をはらい、彼女は傍にあった電灯を骸に投げつけた。だがそんなもの、骸にとっては丸めた新聞紙ほどの意味しかない。ガン、と強烈な音がしたが、それは骸の手に握られた軍用ナイフが電灯を弾いた音に過ぎなかった。包丁よりも小ぶりで、けれどずっしりと重いそれは、人を解体するのに向いている。そういうための代物なのだ。
「来てほしいと言ったのはあなたでしょうに。身勝手な方だ」
 ナイフを持たない左手が、優しくも強く彼女の腕を掴む。そのまま引けば、くるりと踊り子のように舞った肢体がベッドへ落ちた。金糸がふわりと広がり、豪奢なレースのようにシーツを飾る。
「クフフ、大丈夫ですよ……」
 そこへ骸も続き、ベッドは情事を思わせる軋みを持って二人を迎えた。骸が彼女を組み敷く形だ。三ヶ月前と同じ。
「痛みは幻覚で消してあげます。すぐに終わりますからね」
 下唇を舐め、骸は奇妙な期待感を宿した瞳で彼女を見下ろす。右手のナイフは、既に彼女の子宮をなぞるように下腹部に宛てがわれていた。よくよく観察すれば、少し膨らんで丸みを帯びている。
「や、めて……」
 彼女はがくがくと全身を震わせた。荒い息が骸の頬を打つ。骸はますます期待を募らせたのか、大きく口角を吊り上げた。声もなく、獣のように唸る――。
「い、いやよ……やめてぇええ!!」

「よせ、骸!!」

 女の腹にナイフが食い込んだ瞬間だった。強い衝撃が骸を襲う。
「……ッ!」
 中途半端な体勢は簡単に吹き飛んだ。骸はベッドと窓の間の隙間に落ち、その間に突如現れた青年――綱吉はベッドの上の女の腕を引く。
「逃げてください! 外に部下がいます!」
 細い背中を入り口へ押しやって、綱吉は扉へ続く廊下を塞ぐように立ちはだかった。倒れていた骸はゆっくりと起き上がり、落ちていたナイフを硬貨か何かのように気安く拾う。パタパタとついてもいない埃を払ってベルトに挟めば、骸は偽物めいた笑みで綱吉の方を向いた。
「なんのつもりです? ヒーローを気取るような歳でもないでしょうに」
「そんなんじゃない。違うよ、骸……」
「じゃあなんだっていうんですか? これでも精一杯にいい子を演じていたつもりなんですけどね。さすがに殴られるとショックですよ」
「ごめん。でも、あのままだとお前、本当にあの人を傷付けていただろうから。そんなこと、お前にしてほしくないんだ」
「……勝手ですね」
 どちらからともなく、溜め息が零れた。
「……僕は、君のそういうところが大嫌いですよ。気持ち悪いくらいに甘い。甘ったるい。しかもそれを僕になすりつけて、僕まで甘くしようとする。無理だとわかっているのに、そうさせる。それが、僕をどれだけ……っ」
 骸は苦悶に表情を歪め、こめかみを強く押さえた。綱吉は目をみはった。
「骸!」
 綱吉は知っていた。それが、骸の脳に埋め込まれた異物の作用によるものだと。ボンゴレに害意を抱いた時、それは特殊な電磁波を発生し骸の脳波を著しく乱す。能力を制限すると同時に、骸の行動を制限するのだ。骸の尊厳は、ヴィンディチェの牢獄から逃れるために捨てさせられた。骸の意思とは無関係に。
 綱吉は骸に駆け寄り、縮こまった身体を抱き寄せた。
「落ち着いて。何も考えちゃダメだ」
「……っ、マフィア風情が僕に触れるな! 君を見ていると苛々する……っ、ああ、くそ……、本当に、苛立ちますよ。ボンゴレなど滅びればいい。結局は同じだ、忌まわしきエストラーネオと。着飾っただけの薄汚いドブネズミの集団が……ああっ、あああ゛あ゛滅びろ! すべて消えればいい!!」
「骸!!」
 何かを振り払うようにもがく骸を必死に押さえて、綱吉は骸の頭を抱え込む。
「触れるな!!」
 宥めるように撫でる手を、骸の手が掴む。引きはがそうとしているようだが、その手にはいくらも力が篭っていなかった。ぶるぶると病的に震えて、掴むだけで精一杯のようだ。綱吉は焦った。骸の感情がある一定以上に昂った時、チップは爆発するように出来ているのだ。それは骸の頭蓋骨の中だけで済む、小さな――けれど確実に骸を殺すものだ。
「ダメだよ、骸! 落ち着けって!」
「落ち着け!? だったら今すぐ僕の頭に居座る異物を抉り出せ!! さっきから、ぅ……っ、くそ、羽音がする……!」
「落ち着けば納まるから! 深く呼吸をして、静かに……!」
「僕に触れるなと何度言わせれば気が済むんですか!? ああ、ああ、ああああっ、うるさい!!」
「暴れると良くないって! 頼む、少しの間でいいから大人しくして……!」
 がむしゃらに暴れる骸は、いくら綱吉でも完全には押さえがたい。仕方なく、綱吉は骸の足に自身の足をかけた。元々平衡感覚すら危うかった骸の身体は、簡単に床に転がった。間髪入れず、綱吉は体重の助けを借りて骸を押さえ込む。
「……ッ……、くそ……っ」
 重力の向きが変わったことについていけていないのか、骸の頭はぐらぐらと揺れていた。
「目、つぶれよ。何も考えないでいいんだ……!」
 綱吉は覆い被さるようにして骸の視界を塞いだ。ぎゅうと力を込めれば、互いの体温が知れた。
「心臓がうるさい……! 頭の中の蝿も……! うるさい。うるさい! 離れろ!!」
「我慢して! ごめん。俺も、落ち着くから」
 静かに深呼吸を繰り返して、綱吉はじっと耐えた。骸を刺激しないよう、ゆっくりゆっくりと胸の中の骸の頬を撫でる。
「……っ」
「……そう、そのまま。大丈夫、落ち着いてきた。羽音も直にやむよ」
 暗示をかけるように、息を吹き込むように囁く。骸の抵抗は、徐々に力を無くしていた。
「僕に、触るな……」
 その一言が、骸の最後の抵抗だった。弱々しい吐息を吐き出して、骸は大人しくなった。あがくことに疲れたようにも見えた。
「……抱き寄せてるんだよ、ばーか」
 ほっと安心したら、憎まれ口のひとつも叩きたくなった。でもすぐに悲しくなって、押し黙る。骸をこんな状態にしてしまったのは、間違いなくボンゴレ・ファミリーだ。綱吉は骸を水牢から出したことに関して一片の後悔もない。けれど、こんな方法しか選べなかったことは、後悔してもしきれなかった。もちろん、上層部に掛け合ってみたこともあった。こんなことはやめろと。骸だって普通に生きていいはずだと。――返って来た答えは、いつもNOだった。
「骸。骸」
 そっと、骸を呼ぶ。こんなのはもう、やめるべきだ。やめなければ、いけない。
「あの、さ。犬さんと千種さんを呼ぼう? もちろん、クロームも。それで、みんなで一緒にごはんでも食べよう?」
「……そんなこと、ボンゴレのジジイ共が許すものか」
 絞り出された声は、小さく弱かった。拗ねた子供のようでもあり、死の間際にある老人のようでもあった。綱吉は苦笑して、腕に力を込める。少し苦しそうだったが、無視した。
「大丈夫。俺が許すし、許させる。文句なんて言わせない」
「また条件でもつけて納得させるつもりですか? クフフ、今度はどんな制約でしょうねぇ。首輪でもつけて繋いでおきますか? それとも、次は四肢をもいでしまいますか? くふ、くふふふ、愉しみですね……」
 骸が笑う。振動が伝わる。人生とか、世の中とか、そういうものをすべて笑い飛ばしているのだろう。綱吉は泣きたくなったけれど、泣かなかった。流すはずだった涙の数だけ、骸の頭を撫でる。
「そんなこと、させないよ。お前は普通にしてていいんだ。封印も解いてもらう。クローム達とだって、自由に会っていい。本部がいやなら、外に部屋を借りて、一緒に住んだらいいよ」
「寝ぼけたことを……。無理ですよ、そんなの」
「寝ぼけてなんかないよ。絶対、叶えるから。俺はもう立派なボンゴレ十代目なんだ。昔とは違う。お前は、そんな俺が嫌いだろうけど……、でも、俺はお前が好きだよ。どれだけ反感を買っても、捩じ伏せて突き進めるくらいには」
「……っ」
 胸の下で、骸が息を呑んだ。直後。
「わっ」
 大人しかった骸が突然身体を起こした。跳ね飛ばされて、綱吉は尻餅をついた。
「む、骸!」
「くだらない。博愛主義もほどほどになさい。僕は屋敷に戻ります」
 骸は何もなかったかのように立ち上がり、作られた嘲笑を浮かべて吐き捨てる。返答を聞くつもりもないのか、そのまま綱吉に背を向ける。綱吉はがばりと上体を起こした。
「骸! 子供の父親、探すよ! 探した後は、もう当人たちの問題だ。骸には関係ない!」
「……どうぞ、ご勝手に」
 骸はそのまま歩き出した。
「明日! クローム達つれて骸の部屋に行くから! 一緒にごはん食べような!」
 骸の背中はためらいもなく遠ざかる。それでも構わなかった。
「ちゃんと待ってろよ! 約束だぞ! 恥ずかしがって逃げんなよ!」
 言い切ったあたりで、骸は扉の外へ消えた。





 次の日、犬と千種とクロームを引き連れて、綱吉は本当に骸の部屋を訪れた。
 千種お手製のパスタは絶品だった。骸は珍しくおかわりまでして、嬉しそうに笑って、四人は幸せを噛み締めながら同じベッドで眠った。綱吉はそれを見守って、静かに帰っていった。





 翌日、ボンゴレの上層部は六道骸の解放を宣言した。
 同日夜、沢田綱吉は同盟会議においてボンゴレ・ファミリー以下同盟ファミリーの永久の繁栄を誓った。
 以降、ボンゴレ・ファミリーは急速に成長を続けた。手段を選ばぬ姿勢は、かつて暴君と恐れられた二代目に酷似していたという。






 ――六道骸がボンゴレ十代目を奪い去ったのは、その翌年のことだった。


















続きそうで、続かない件←
自分のせいでマフィアらしく振る舞わざるをえなくなった綱吉を見ていられず、ついつい拉致っちゃった骸さん。
監禁とかしちゃったらいいと思います←←←


2010.10.8