生意気な黒い犬




 気の良い同僚、暖かい会社、小さいけれどきれいな家、きれいな奥さん、優しい日々――。
 俺の今回の人生はとても恵まれていると思う。俺自身は前回同様びっくりするくらいにダメダメなのに、何故だかいつもうまくいっていた。なにかと運がいいんだ、俺。小中はトントンと公立校で、高校は先生に言われるままにボランティアや何かをしていたおかげで推薦を受けられた。でも頭は良くなかったから、面接はあんまりいい雰囲気ではなかった。最後に面接官に特技はあるかと聞かれ、何にもなかった俺は苦し紛れにイタリア語で自己紹介をしてみた。内容はこうだ。
『俺は前世の記憶を持っています。前世の俺はイタリアでボンゴレ・ファミリーの十代目をしていました。個性的な仲間と非日常的な生活を楽しみ、最後には歴史あるファミリーを解体し、その結果元幹部に暗殺されました。でも今は平々凡々な生活を満喫しています。こんな俺ですが、ぜひ入学許可証をください。てへ!』
 ……今思えば、馬鹿の極みである。でも、たまたま面接官の中にイタリア語をかじった程度の人がいて、その人は半分も意味がわからなかったくせにいたく感心したらしく、俺はあっさりと合格し、入学した。ランクとしては結構いい高校だった。バカ校特有のヤンチャ系生徒なんてひとりも生息していなかったし、ならネバっこいイジメがあったかといえば、少なくとも俺の周囲にはなかった。
 クラスメイトは、みんないいヤツばかりだった。いつもハキハキとして明るい野球少年の山森。不良っぽい見た目だけど、意外と誠実で抜群の頭脳を持つ徳寺くん。優しくて笑顔の素敵な今日子ちゃん。元気いっぱい、ムードメーカーのハルカ。他にも、拳の勝負なら負けなしの佐瀬川先輩。恐ろしい風紀委員を束ねる雀さん。ここまで揃うとさすがの俺も気付くよ。たぶん、前世で一緒だったみんなだ。山本、獄寺くん、京子ちゃん、ハル、お兄さん、雲雀さん。気付いた時は嬉し泣きしてしまった。また会えて、本当に本当に、嬉しかったんだ。
 今は、雲雀さん――もとい、雀さんが興した会社で働かせてもらってる。みんな一緒だ。助け合って、時に雀さんに怒られながらもなんとかやっている。仕事も流れに乗って、最初よりいろんな事業に踏み出せるようになった。すごく充実していると思う。
 そんな折り、俺の人生に大きな転機があった。結婚だ。びっくりだ。ちなみに、相手は今日子ちゃん。酔った勢いで告白したら、素面の今日子ちゃんにオッケーをいただいてしまったのだ。今日子ちゃんは、佐瀬川今日子から沢井今日子になった。あ、俺の今の名前は沢井綱頼っていうんだ。サワイ、ツナヨリ。前世の名前をもじったようで笑えるよ。ダメツナってあだ名がまた使えちゃうのはどうかと思うけど、別に両親を恨んだりはしない。筋違いだしね。
 とにかく、今の俺は幸せだ。いろんなことがあり過ぎた前世とは大違いだ。
「だからかな……」
 ぼんやりとソファーに座って、電子灯を仰ぎ見る。蛍光灯とは全然違う光だ。豆粒みたいな電球から、放射状に光が広がっている。
「ため息なんかついて、どうかした?」
 視界の中に、ひょいと妻が顔を出した。そう、今日子ちゃん。いくつになっても花のような、可憐な女性だ。見慣れたとはいえ、やはり少しにやけてしまう。
「いや。幸せだなぁと思って」
「ふふ、そうね。でも、いきなりどうしちゃったの? なにかあったの?」
「全然。なんにもないよ。あとは……、子供がいたらなぁ」
「……そうだね」
 それは、贅沢な願いだった。俺たち夫婦には、子供がいない。頑張ってみた時期もあったけど、子供が出来る気配なんてまったくなかった。夫婦揃って子供の出来にくい体質なんだって。病院で検査をしてわかった。幸せなんだけど、少し足りないと思う。子供さえいたら、完璧なのに。
「あ、そうだ。ずっと相談しようと思ってたんだけど、私、もうひとつ欲しいものがあるんだ」
 今日子ちゃんが俺の隣に座る。
「犬を飼いたいなって、思ってて。私、白い家の広い庭で白いワンピースを着て白い犬と散歩するのが夢だったの」
「ははっ、絵に描いたみたいな少女趣味だなぁ。でも、うん、いいんじゃないかな。なんだかしっくり来るよ。広い庭はないけど、家は白いし、君には白いワンピースが似合うしね」
 思った通りに言っただけだけど、今日子ちゃんはほんのりと頬を染めた。我が妻ながら、可愛い。
「週末にでも、ペットショップに行こうか。真っ白な子犬を探そうよ」
「うん。あ、でも、その前に市の保護センターにも寄ってみない? 血統書付きの犬じゃなくてもいいもの」
「そうだね。決まり!」
 こうして俺達の週末の予定は決まった。犬かぁ。実はちょっと苦手だったりするんだけど、でも、子供がいない淋しさを埋めるには丁度いいかもしれない。





 初めて来た保護センターは、予想外に賑わっていた。広場に集められた檻にはいろんな犬が入っていて、至るところからキャンキャンと高い鳴き声が上がった。自分たちは生きてるんだと必死に主張しているように聞こえた。俺や別の誰かに引き取られなければ死んでしまう命なのだ。犬たち自身はそんなこと理解していないだろうけれど、理解している俺は少し息苦しかった。
 それにしても。

「か、カワイイ……!」「か、可愛い……!」

 夫婦揃って感嘆の声を上げてしまった。いや、ホント可愛いんだって!
 雑種なんだろうか、ころころと団子のようになってじゃれて合う子犬たちもいれば、親犬と一緒に捨てられたのか一心不乱にお乳に吸い付く子犬たちもいた。色も様々だったが、暖かそうな色合いが多かった。
「あ、見て!」
 今日子ちゃんが少し離れたところに置いてある檻を指す。
「わぁ……っ、ふわっふわ……!」
 真っ白な毛玉。もしくはシロクマ。そんな感じの子犬たちが元気に動き回っていた。
「こんな可愛いの、よく捨てられるよな。っとと、ホント元気いいな!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねて、今にも檻から飛び出してしまいそうなほどに元気な子犬だ。犬種はわからないが、とにかく白い。イメージ通りだ。この子犬たちの中から決めてしまおうか。そう思った。
「――ん?」
 白いけむくじゃらの中に、一匹だけ真っ黒なのが混ざっていた。こちらを見向きもせず、鳴きもせず、すみっこで伏せている。ピンと立ち上がるべき耳は寝かされ、しょげているようにも諦めているようにも見えた。なんとなく、気になる存在だ。
「どうした? おまえ、元気ないなぁ」
 おいで、なんて言いながら、その子犬の胴をそっと掴み上げる。あまり食べていないのか、他の子犬より痩せていて、肋骨の位置がよくわかった。
「元気がないと、もらってもらえないんじゃないか? そんなんじゃおまえ、このまま――」
 このままここで死んじゃうぞ。そう言おうと思っていた。でも俺は絶句していた。何も言えなかった。
 無気力にこちらを見た子犬は、右の瞳だけ深紅に染まっていたのだ。

「むく、ろ……?」

 この瞬間、俺は今日子ちゃんを説得することを決めた。






 ****






 タオルを敷いた鞄に黒い子犬を詰めて帰った。道中暴れることもなく、鳴くこともなく、妙に大人しかった。その態度は、家に着いて知らない匂いに囲まれても変わらない。そりゃそうか、骸だし。あいつが慌てふためく様なんて、姿が犬であろうと想像出来なかった。
「なんか、ごめん。希望通りじゃなくて。でもさ、俺、どうしてもコイツが良くて……」
 リビングでお茶を入れて、少し寛いで。散々謝ったけど、俺はもう一度今日子ちゃんに謝った。だって、全然白くないんだ、コイツ。白い家にもワンピースにも似合わない、真っ黒な犬。尻尾の感じや顔立ちなんかはラブラドール・レトリバーに似ているけれど、立ち上がった耳は三角だから、ラブラドールと何かとの雑種だろうか。なんとなく、大きくなりそうな予感がした。今日子ちゃんの夢見た光景とは離れているだろう。
 けれど今日子ちゃんは、果物カゴの中で寝転ぶ骸を撫でて笑っていた。
「ううん、いいの。この子だって可愛いよ、すっごく。それに、この子、ツナくんのこと好きみたいだもの。さっき、保護センターのおじさんに聞いたの。この子、他の人に抱き上げられるとすごく暴れるんだって。この子にとっても、これで良かったんだと思うよ」
「そ、そうかな?」
 骸が俺のことを、好き。なんだろう、ドキドキした。そうだったらいいな。ちょっと調子に乗って、骸の頭に手をかざした。とき。

 がぶ!

「あだぁッ!」
 指先をガブリとやられていた。甘噛みとかそういうのじゃなく、小さいながらも本気の攻撃だ。イタイ。歯も生え揃ってないくせに!
「こらっ、骸!」
「むくろ? この子の名前?」
「え! あ、ああ、そう、そうなんだよね、ははははー!」
 笑って誤魔化しながらも、ちょっと涙目になった。無理矢理に骸の口から指を引き抜いて、机の下でぶんぶん振る。まだヒリヒリした。
「コイツ、骸っていうの。もう決めたというか、最初から決まっていたというか……」
「じゃあ、むーくんね! むーくんはまだミルクの方がいいのかしら? 犬用のミルク買ってこないとね」
「あ、ああ、うん」
「あとトイレとかベッドとか、ああ、首輪とリードもいるかしら。ツナくん、むーくん見ててくれる? 私、お夕飯のお買い物と一緒にちょっと買ってくる」
「えっ、あ、ああ、うん」
「むーくん、またね!」
 今日子ちゃんはさくさく決めて、さっさと行ってしまった。さすが主婦だ。もうそんな時間か。とりあえず、彼女が骸を受け入れてくれて良かった。優しい今日子ちゃんのことだからダメって言うことはないと思っていたけど、もし万が一ダメと言われてしまったら、俺は今日子ちゃんと骸のどっちをとればいいのかわからなかった。前世で、骸は俺の特別だった。俺と骸の関係を明確に表す言葉はなかったけど、互いが大切で、だからこそよく衝突していた。元は敵だったし、我ながら奇妙な関係だったと思う。でも、そんな関係が心地よくて、俺は骸と一緒にいる時間を愛していた。
「……なあ、骸」
 呼べば、黒い塊はもぞもぞと動いてこちらを見つめた。毛並みに混じってしまいそうな真っ黒い目と、黒一色の中でやたら目立つ紅い目。つぶらな瞳だ。小さ過ぎて、その瞳の中に文字があるのかどうかはわからない。
「骸、だよな? 俺だよ、沢田綱吉。今は違う名前だけどさ。見た目も変わったけど、不思議と昔の記憶はちゃんと残ってるんだ。お前、あの後どうしてた? 復讐だとか馬鹿なこと言ってないか心配だったんだけど。ちゃんと幸せになったか?」
「…………」
 骸はじっと耳を傾けているようで、答えは無かった。ぴすぴす、と小さな鼻が呼吸する音があるだけだ。
「なんか喋ってよ。あ、犬だから喋れないのか? じゃあ、俺の言葉がわかったら、ワンって鳴いて?」
「クゥ……」
「……び、微妙なラインだな」
 今のは少なくとも『ワン』ではない。英語式の『BOWWOW』でもない。六道輪廻のシステムはよくわからないけど、ひょっとして知能は生まれ変わった先の生き物によるんだろうか。もしそうなら、今の骸はちっちゃい脳みそで膨大な記憶を支えていることになる。それなら、骸としての意識も曖昧になっているんだろうか。うーむ、わからない……。
「おーい。骸……なんだよな?」
「…………」
「俺の言葉、わかるよな?」
「…………キュゥ」
「なんだよ、その渋々返事してやったみたいな感じは。……まあ、骸らしくていいけどさ」
「クゥ?」
 骸はこっちを見たままこくりと首を傾げた。か、可愛い。なんだこれ。わざとか。わざとだったらコイツ、どうしてくれようか。胸の奥からキュンだとかドキュンだとか、奇妙な音がしていた。すごく構ってやりたい。
「骸〜……、お手!」
「…………」
 ぷい。骸はそっぽを向き、差し出した手に小さな前足が乗せられることはなかった。
「あー、そういうところはすごく骸っぽい……」
 やるはずないよなぁ、そりゃ。あのエベレスト級の誇りを持つ骸のことだ、犬になったってお手なんてしやしないだろう。それにしても、つれない。
「話せないのか話さないのかわからないけどさ。せっかくこうして再会出来たんだ、また一緒に暮らそうよ。今度は、普通に。楽しく。平凡な暮らしもたまにはいいだろ?」
 なあ、と骸の顎の下をこすってやれば、骸は大きくあくびをして、眠そうに瞬いた。
「……ワフッ」
 また微妙な返事だった。






 ****






 骸のいる生活は楽しかった。楽しくて楽しくて、子犬でいた時間なんてあっという間に思えた。骸はどんどん大きくなって、二本足で立ち上がると鼻面が俺の胸にくるくらいになった。こうなると、ちょっとした番犬だ。顔つきはまだ少し幼いようだから、これからまだ大きくなるのかもしれない。黒くて迫力があるだけに、警察犬なんかが向いていそうだ。それくらいに立派な犬になった。でもあいつ、愛想はないけど、愛嬌はあるっていうか。普段は腹を見せたりしないくせに、寝てる時はころんと呆気なく見せたり。ジャーキーをやってからだと仕方ないなとお手をしてくれたり。調子に乗って「チンチン!」とか指示してみたら思いっきり噛まれたけど。とにかく、あいつ、なんだかんだで可愛いんだ。
「むくろー、おいでー。散歩行くぞ、散歩」
 休日の午後。日課になった散歩は、俺にとっては趣味のようなものだ。骸は俺の言葉に答えてくれないけど、道中、一方的にでも話しかけることが楽しかった。骸はあまり吠えない。ただ黙って俺の話を聞いて、たまに鼻息だけで返事(?)をする。小生意気だけど、それでも愛しかった。
 のしのしやってきた骸の首に、愛用の首輪をしめる。深緑が黒曜の制服を思わせる、骸のお気に入りのものだ。
「緩くないか?」
 ぶん。しっぽがぞんざいに振られる。これが骸流の返事なんだと気付いたのは最近だ。
「はい、じゃあリード通すぞー」
 かちゃん。いつものリードをつければ、よくあるお散歩スタイルの出来上がりだ。気分も乗ってきた。
「よし、いってきまーす」
「気をつけてね」
 骸を連れて、外に出る。夕焼けに染まる前の、少し黄色い空が広がっている。日差しは強くないし、少し涼しくなって来た頃合いは散歩に丁度良かった。
「今日は少し遠くまで行こうか。最近ビール腹になってきちゃってさぁ。ダイエット、付き合ってよ」
 骸はちらりと俺の腹のあたりを見、はふん、と鼻息を吹き出した。
「あっ、ひどいな! 今めちゃくちゃ嘲笑っただろ!」
 骸はやれやれと首をふり、とっとと歩き出す。
「こらっ、先に行くなって!」
 いつだったかテレビで言っていたっけ。散歩の時、主人より犬が前に出たら、しつけがうまくいっていないって。ちゃんと主従関係をハッキリさせた方が犬にとってもいいらしいけど、骸の場合はどうなんだろう。あいつ、主従とか嫌いそうだよな。とりあえず、主人であるはずの俺は、骸のあとをついていくしかない。
 いつもの町並みを歩きながら、途中でコースを変える。隣町に行く道だ。あまり詳しくは知らないが、探険気分が背中を後押ししていた。骸は何を考えているのやら、辺りを見回すこともなく真っ直ぐに歩いていた。時間はあるし、少し話をしようか。
「……前にさ、並盛に行ってみたことがあるんだ。地名とか、全然変わってなかったよ。黒曜も変わってなかった。人と建物は変わってたけど、並中も黒曜中もちゃんとあったし。懐かしいと感じるには変わっているところが多過ぎたけど、それでも行って良かったと思う」
 ぶん。しっぽが揺れる。
「ウチがあったところさ、でっかいマンションが建ってたんだ。沢田なんて表札のある家、探したんだけどその近所にはなくて。俺が跡継ぎも残さずに死んだから、沢田の家は絶えちゃったのかもしれない」
 ぶん。また揺れる。
「せっかくだから、俺んちの墓も見て来たんだ。誰にも手入れされてなかったみたいで、草ぼーぼーでさ。墓石なんてヒビが入ってた。でも、そこには母さんと父さんの名前がちゃんとあって……、けど、俺の名前はなくて。俺、死に方が死に方だったし、ひどい死に顔だったろ? 二人には言えなかったんだろうな。父さんは、わかってたのかもしれないけど」
 しっぽは、揺れなかった。代わりに骸は少しためらうようにいったん足を止め、けれどまた歩き出す。何を考えていたのかはよくわからなかった。今の俺に、超直感はない。
「なあ、骸。俺が死んだ後、みんなどうしてた? 獄寺くんやお前なんかは、復讐とかに走りそうで恐かったんだ。別に俺、あの時俺を殺したヤツを恨んでないし。元々、歴史あるファミリーを解体しようなんて考えた時点で誰かしらに憎まれるのは覚悟してたし。成るべくしてなったって言うのかなぁ。俺、殺されて当然――とまでは言わないけど、そこそこのことをしたんだろうから」
「クゥ……」
 今日初めて、骸の声を聞いた。悲しげな声だ。不安にさせてしまったかな。俺は歩みを速くして、わざとらしく笑顔を作った。
「今度はさ、そういう無駄にシリアスな生活はしたくないんだ。平凡万歳! 大なく小なく並〜が〜いい〜ってね」
「わふっ」
 懐かしい校歌を歌えば、骸は少し跳ねるようにして鳴いた。珍しいこともあるもんだ。こんなに同調してくれることは滅多にないから。
「はは、お前も結構この生活気に入ってるんじゃないか? のんびりするのもたまにはいいもんだろ。な?」
「わん」
 返事があることが嬉しくて、俺は鼻唄を歌いながらずんずん歩いた。知らない町並みが新鮮だ。前の人生とは全然違う今が、新鮮だ。
「――お?」
 ふいに、遠くの方からベルの音が聞こえきた。「大売り出しですよー!」精一杯に張り上げた声も。
「見ろよアレ! セールやってるみたいだ!」
 交差点の先で、派手なはっぴを来た店員が特大のベルを振っていた。こじんまりしているが、スーパーのようだ。セールと称して並べられた商品の詳細は遠くてまだわからないが、ペルシャネコがささみに似たキャットフードを優雅に食べているポスターが見えた。最近よくCMで見るヤツだ。他にもいろんなポスターが販促として貼られていたが、どれもペットに関するものばかりだった。ペットグッズのセールだろうか。
 あ、そうだ!
「せっかくだから、犬用のシャンプーでも買って帰ろうか。家に戻ったら隅々まで洗ってやるよ」
 好意で言ったつもりだったのに、骸は突然立ち止まって振り返った。「何言ってるんですか、君」そんな言葉が聞こえてきそうだった。信用ないなぁ、俺。
「……なんだよ、嫌なのか? 遠慮すんなって。こないだテレビで犬の洗い方とかやっててさ、一緒にマッサージの仕方もやってて。いつかお前で実践してやろうと思ってたんだ」
 テレビでは、飼い主にマッサージされた柴犬が恍惚としていた。なんというか、もうどうとでもしてくれぇ〜って感じだった。骸があんな風になったら、それはそれは可愛いだろう。俺のハンドテクニックでうっとりさせてやる!
「ほらっ、売り切れる前にダッシュだダッシュ!」
 気分が乗って来て、俺は走り出した。先に見える信号は青だ、邪魔をするものはない。引っ張られた骸が嫌々ながらもついてくる。綺麗な街並みを突っ切って、俺と骸は駆けた。こういうの、いいな。幸せだ、俺――。

 ギキィ!

 え、何の音だ?
 浮かれた頭はうまく回らなくて、俺は半笑いのまま右を見た。ああ、そういえばここは交差点だ。車が迫ってる。迫って……え?

「うぉん!!」

「え」
 背中に何かが当たって、押された俺は勢いを増して数歩分進んだ。
 その直後だった。
 どん、と。重たい音。短い犬の悲鳴。
「え……え?」
 衝撃は俺の脳細胞を壊してしまったらしい。混乱して、事態を把握するのが遅れた。あのタイミングで俺の背中を押せるやつなんて、ひとりしか――いや、一匹しかいないのに。
「骸っ!?」
 振り返っても、骸の姿はなかった。どこに、と目をこらせば、少し先のガードレールの下にぐったりとうずくまる黒い塊があった。
「骸!!」
 俺には傷ひとつなかった。身体はちゃんと動いて、骸の元へ急ぐ。対照的に、骸の身体は酷いものだった。黒い毛皮は傷の具合をわかりにくくしているが、それでも抱き上げればわかる。おかしなところに、あばら骨がある。だらんと垂れ下がった前足は力の入る構造そのものを失っている。
「骸……おい、しっかりしろよ……! 嘘だろ、なあ、骸……!」
 骸の目はどろんとしていた。ひゅーひゅーと苦しげな呼吸音が痛々しく、時折びくんと痙攣する。目眩がする心地だった。このままでは骸が死ぬ。それくらい、馬鹿な俺にだってわかった。やっと、平穏な世界を手に入れたのに。そんなこと、そんなこと許されない!
「くそ……!!」
 骸を抱き上げ、歩道を見る。骸を跳ねた車の運転手がへこへこするのを無視して、群れる野次馬の中を突っ切る。放置自転車なのか単に違法駐輪なのか、コンクリート塀に立てかけられていた自転車を起こす。ママチャリだ。鍵なんてついてない。べこべこに凹んでいる前カゴを無理矢理開いて骸を乗せ、リードをハンドルに巻きつけてどうにか固定する。
「近くに動物病院は!?」
「えっ、あ、ああ、この道をまっすぐに行った、駅のそばに……」
 吠えるように尋ねれば、野次馬Aが慌てたように答えた。
「ありがとう!」
 彼に心からの感謝を捧げ、車の運転手にはクソヤロウと吐き捨てて、俺はまともに漕げたこともないペダルを力強く踏みつけた。
「骸、すぐ獣医さんとこ連れてってやるからな! 大丈夫、すぐに痛くなくなる。だから死ぬなよ……!」
 自転車なんて乗れたためしのない俺だったけど、この時ばかりは誰よりも速く走れた。






 ****






 やたらと長く感じた道の先、確かに見知らぬ駅はあった。普段使っている駅のふたつ隣の駅だ。駅前のロータリー沿いにはたくさんの店があったが、動物を象った看板はよく目立っていた。
 借り物の自転車を乗り捨て、骸を抱きかかえる。呼吸は荒い。俺は礼儀も忘れてガラスばりの動物病院に駆け込んだ。
「先生ッ! 骸を助けてください!!」
「……!?」
 入った先は待合室だった。そこにいた白衣の人物は、包帯を巻いた子犬を抱えたままこちらを凝視して固まっていた。薄くグレーの入った眼鏡をかけた、若い男性だ。俺はその人に縋りつく勢いで詰め寄った。
「先生! うちの犬が俺の代わりに車に轢かれて、血が……! 骨も折れてるみたいで、どうしたらいいのかわかんなくてっ、お願いです、骸を助けて……!」
 その人は少し驚いたようだが、すぐに眼鏡を押し上げて子犬を飼い主に返した。そして余念なく骸の身体を観察しだす。そうしながらも後ろ手に合図を送り、それを受け取った別の女性スタッフはカート状の寝台を運んできた。流れるような段取りだ。この人になら任せられる。そんな気がした。
「……腹の損傷が酷いな。すぐに緊急手術に入ります」
「先生、骸は助かるんですか!?」
「落ち着きなさい。騒ぐと他の動物たちが興奮して手術に支障をきたしますよ」
 ぐ、と喉がつまるようだった。そうだ、きっとその通りだ。俺は大きく深呼吸をして、頷いた。
「偉いですね」
 先生の手が、骸ではなく俺の頭を撫でる。どきりとした。俺、この手を知っている気がする……。
「さあ、犬はこちらへ。あなたはここで待っていなさい」
「は、はい」
 戸惑いながらも返事をすれば、先生は穏やかに微笑んで白衣を翻し、急ぎ足で奥へと消えていった。
「ゆっくり乗せてください。足はこちらに向けて。そう、ゆっくり」
 女性スタッフの主導で骸を寝台に乗せ、俺は血塗れの骸を見送った。






 ****






 夜も更けた動物病院で、俺は両手を祈る形に組んでじっと手術室の扉を見つめていた。隣には慌てて駆けつけた今日子ちゃんが同じようにしている。骸は子供のいない俺たちにとって、実の息子同然だ。俺にとっては、それ以上に思い入れのある存在で、失うなんて考えられなくて、だから、
「むくろ……!」
 一心に念じるしかなかった。どうか、骸を連れていかないで。どうか――。

 かちゃ。

 奥の扉が開いた。俺たちはほぼ同時に立ち上がって、出てきた先生に駆け寄る。先生はどうぞ、と俺たちを奥へといざなった。
 小ぎれいにまとめられた診察室だ。真ん中より少し壁際に寄ったあたりに寝台がある。その上には、まるで包帯の塊のようになった骸の姿があった。
「骸……っ」
「むーくん……!」
 包帯だらけの黒い犬は、どこか小さく見えた。てっきり眠っているのかと思えば、生意気なアイツはよろよろと俺たちの方に顔を向け、子犬のように高く鳴いてみせた。
「ったく、こういう時ばっかり可愛いコぶりやがって、バカ……! でも、良かった……良かったよぉ……!」
「むーくん……っ、心配したんだからね……!」
 あまり動かすのは良くないだろうと、俺も今日子ちゃんも骸を撫でる手は柔らかい。骸は物足りなさそうだが、仕方がない。傷が良くなったらべろべろに甘やかしてやろうと決めた。シャンプーだってマッサージだってなんだってしてやるんだ。
「――骸、というんでしたか、この子は」
 自分たちの世界に入っていたところへ、涼しげな声がかかった。先生だ。骸を助けてくれた、恩人。自然、背筋が伸びた。
「は、はい、そうです。先生、このたびは骸を助けてくださって、本当にありがとうござました。このご恩は一生忘れません!」
「……いいえ。これが僕の仕事ですから」
 先生は少し戸惑ったように視線を外してしまった。照れ屋なのかな。ふふ、骸みたいだ。
 先生はわざとらしく咳払いをして、俺たちに向き直った。よく見れば、先生はなかなか綺麗な顔をしていた。薄いグレーの眼鏡が目元の表情を隠してしまっているのが残念だ。
「今後のことですが、しばらくは安静にしていた方がいいでしょう。今日明日はここで預かります。明々後日にまたいらっしゃい」
「え……」
 淡々と告げられ、びっくりした。骸と離れるなんて……。
「あ、あの、俺、ここに残っちゃダメでしょうか? その……、骸のそばにいてやりたくて」
「お気持ちはわかりますが、今日はいったんお帰りください。この子はあなたの代わりに事故にあったのでしょう? ならば、あなたにはすべきことがありますよ。今日は素直に帰ってじっくり休むこと。それから、明日は朝一番に病院で検査を受けてくること。この子のためにも、あなたは自分の身体のことを第一に考えなさい」
「は、はい……」
「安心なさい。今日は僕が付きっきりで骸くんを見ていますから」
「あ、ありがとうございます! えと……」
 先生の名前を知りたくて、胸元のネームカードを見る。ええと、『六』――?
 一文字読んだところで、先生はさっと背中を向けてしまった。
「ほら、早く帰りなさい。もう閉めますよ」
 ああそうか、もう夜も遅いもんな。これ以上居座るのは迷惑だろう。
「す、すいません。明日、検査の帰りにでもまた寄ります。骸の様子を見に。骸のこと、よろしくお願いします」
「むーくんをよろしくお願いします、先生」
 広い背中に告げて、二人して頭を下げる。俺たち夫婦は、もうこの病院に足を向けて眠れないや。それくらいに感謝していた。
「……どうぞお大事に」先生はあくびをひとつして、奥へ消えていった
「骸、また明日な。先生に噛みついたりするなよ」
「むーくん、またね。帰ったら、むーくんの好きなお肉、たっくさん食べさせてあげるからね」
 どこか心細げに見える骸を一撫でし、俺たちは病院を後にした。






 ****






「……」
 沢井夫妻の背中を遠く見送って、獣医の男は小さくため息をついていた。胸の名札には六道、とある。六道は踵を返し、寝台に乗った痛々しい姿の黒い犬に向き直る。沢井夫妻の飼い犬、骸だ。
「……なるほど、確かに右目の色は少し似ていますかね。遺伝子異常でしょうか」
 黒い毛皮が美しい犬は、右の目だけ紅を湛えていた。六道は何を思ったかおもむろに眼鏡を外した。露わになった両目は、左が日本人らしい焦げ茶、右が異質な紅だった。犬のそれと良く似ているが、実際は違う。六道の瞳には『六』の文字が色濃く刻まれていた。犬には、それがない。
「不思議な因縁もあるものですね……」
 ぎし。診察室に常備している椅子を軋ませて、六道はだらりと力を抜くように腰掛けた。疲れていた。手術もそうだが、予期せぬ再会に。食事をする気もおきなくて、六道は垂らした両手を意味もなく揺らす。そこへ塗れた何かが当たった。
「ケン、チクサ……」
 下にいたのは二頭の大型犬だった。ぼさぼさの赤茶けた毛並みが特徴的なケンと、ダルメシアンのような柄に垂れた耳だけが真っ黒いチクサ。どちらも雑種で、捨てられていたところを六道に拾われた犬たちだ。二頭はぺろぺろと六道の指先を舐めていた。少し身を乗り出して二頭の頭を交互に撫でてやる。六道によく懐いた二頭はそれはそれは嬉しそうに尻尾を振り回した。
 ぴぴっ。そこへどこからともなく小さな小鳥がやってきた。モノトーンの身体にくっきり色づいた赤いくちばしが美しい文鳥だ。六道の肩に乗り、頬ずりをする。巣から落ちて親に見捨てられていたところを六道に拾われた小鳥だった。六道に絶対の信頼を寄せているのが仕草でわかった。
「クロームまで……」
 六道は苦笑してクロームと名付けた文鳥の頭をくすぐってやる。クロームはぴぃぴぃと嬉しそうにさえずった。
「お前たち、慰めてくれているんですか?」
 二頭と一羽は言葉が通じているかのようにしきりに鳴いてみせる。今でこそ自由に動き回れる彼らだが、出会った当初は皆傷つき、死にかけていた。六道は彼らを助けたくて猛勉強し、獣医にまでなったのだ。今や家族同然である。六道の視線は人に向けるそれよりも遙かに穏やかだった。
「いい子ですね、お前たち。でも、別にいいんですよ。彼が幸せなら、それで。今の彼にとって、骸の役はこの犬で十分なんです。僕がいては、せっかく手に入れた平穏も崩れさってしまう。僕はそういう存在です。毒にはなれても、薬にはなれない」
 前世を思い出す。ボンゴレ十代目、沢田綱吉。彼の人を殺めた人間を追いつめて、張り付けにして、問いつめた。出てきたのはくだらない理由だった。マフィア殺しの六道骸に感化されファミリーを蔑ろにしたからだと、血塗れの男は叫んだ。違うと叫び返して、六道骸は男を殺めた。彼は六道骸を愛したけれど、決して感化などと呼べるものではなかったのだ。ぶつかり合っては傷つき、傷ついては互いに歩み寄り、またぶつかり合っては離れた二人。なのに――。
「彼が『骸』を求めてくれただけで、僕はもう満足です」
 六道はいったんは置いた眼鏡をとり、かけた。
「だから、これでいい」
 鮮烈な紅は、曖昧なグレーに隠れて消えた。





















2010.9.10