024.終わりとそれから




 不思議な夢を見た。
 いや。正確には、見たような気がした……だろうか。
 目を開けてしまうと夢の残滓はさらさらと消え、手の平から砂が滑り落ちた時に似た寂しさだけが残っている。
 そう、僕は確かに寂しさを感じていた。
 夢が終わってしまったことに。
 夢を覚えていないことに。
 それに、夢の中の暖かな人を思い出せないことに。
 ……本当に不思議な夢だった気がする。

 なぜかまだ、胸が痛い。















 気付いた時には親などいなかった。顔すら知らなかった。むしろ最初から存在していないのではないかと思うくらい親の記憶がなかった。僕はそれを恥ずかしいこととして受け止めていたから口に出すことはしなかったけれど、本当は『親』という単語の意味すらきちんと理解していなかった。でも同室の子供達の中の何人かが親を呼び続けて、そのうちに声が枯れて、それでも無音で呼び続けて、そうして最後には絶望に涙すら枯らすのを眺めるうちに、僕は親というものを僕なりの解釈で理解していた。
 親の定義。
 傍にいてほしい人。けれど傍にいない人。呼んでも呼んでも、来ない人。
 でも。
(……どうして、羨ましいんだろう)
 掃除などする者もなく白さの薄れた部屋の片隅で、冷たいタイルの感触に慣れ過ぎた足を抱えるように座り込み、僕はただぼうっとしていた。光の加減で青にも漆黒にも見える髪が少し動くだけでさらりと流れる。鏡というものがないのであまり実感がわかないが、かつてここにいて――今はもういない子が、僕の眼を眺めて言ったことがある。「お前の眼は寒い色だけど、ずっとずっと前に見た空の色をしてるね」と。どういった経緯でここへ来たのかは知らないけれど、彼はこんな寒くて薄暗い中でさえよく笑い、あまり活発とは言えない僕にもよく構ってくれた。辛かったけれど、彼がいたから笑うことが出来た。
 でも、僕は知っていたんだ。夜も更けた頃に、彼が小さく、オトウサン、オカアサン、とここにはいない人を呼びながらすすり泣いていたのを。
 泣き腫らした目元を隠して笑っていた彼。いつしか親を呼ぶこともなくなって、笑わなくなった彼。泣かなくなった彼。今はもういない、彼。
 大人たちに連れて行かれる最後、別れの言葉もないままに二度と帰って来ることはなかった。
(彼は、親がいたから帰って来なかったのだろうか。それとも、親がいなくなってしまったから帰って来なかったのだろうか)
 親のいない僕には、わからない。わからない、のに。
(どうして、欲しがっているんだろう……)
 どうしてか、顔も知らぬ親という存在への憧れがあった。親を知る子供ほど早くに絶望を知り、いなくなってしまったのに。
 僕のいる部屋には、記憶にある限りで最初十人くらいの子供たちが寄り添って生きていた。それが一人減り、二人減り、一人増え、三人減り……。減っては増え、増えては減るうち、僕は笑わなくなっていた。別れを悲しまなくなっていた。新しく来た子に挨拶をすることもなく、どうせすぐにいなくなるのだと放っておいた。実際、そうなった。その時にはもう、何も感じなかった。狙い通りではあったけれど、果たしてそれが良いことだったのかは、今ではもうわからない。
 その頃からだろうか、僕があの不思議な夢を見るようになったのは。夢の中では、ずっと誰かの傍にいた気がする。その誰かと一緒に苦しんで、苦しんで、苦しんで……金色の暖かな人に救われた。たぶん。あくまで、そんな気がする、程度の域を出ないのだけれど。そうして夢のおかげでなくしたはずの胸の痛みを取り戻し、僕は考えるようになった。今はもういない子供たちは、光を失う最後の最後、大切な人の顔をその瞳に映していたのだろうか、と。
(……大切な人。僕には……)
 あの夢を必死に思い出す。寂しい、悲しい、それでいて焦がれる想いがある。夢が残した強い感情だけはいつまでだって残っていた。あの夢の中に、僕の大切な人がいる。それが誰なのかは、相変わらず思い出せないままだ。
(オトウサン、オカアサン、か。いいな……)

「いいな……」

 ぽつりと突然聞こえた言葉は、僕の口から出たものではなかった。
 発生元を探してそう広くもない室内を見回せば、汚い毛布にくるまって眠る子供達とは少し離れた隅っこに、ちょっとくすんだ金髪の少年が僕と同じポーズで座っているのが目に入った。少年の目の下には横に大きく伸びた傷痕(きっと実験の痕だろう)があって少し怖い印象を受けるが、その表情は酷く悲しそうで、今にも泣き出しそうに見えた――いや、泣き出してしまった。
「ぅ……っく、うっ……うぇぇえ……っ」
「なくなよ……」
 隠すこともなく恥ずかしがることもなくぼろぼろと涙を落とす彼の隣には、友達なのか肩を叩いて慰めている眼鏡をかけた黒髪の少年がいた。頭には古ぼけた包帯が巻かれていて傷こそ見えないものの、きっとその下には実験の痕跡がありありと残っているのだろう。その少年も、僕からすれば涙を堪えているように見えた。
(あの子達も、僕と同じなんだろうか……。オトウサンとオカアサンは、いるのかな)
 彼らは身を寄せ合って、兄弟か何かのように互いを繋ぎ止めていた。その姿に、もうずっと前にいなくなった少年たちを思い出す。赤茶の髪をした仲の良い兄弟だった。ちゃんと親からもらった奇麗な名前を持っていた。僕は彼らの姿から『兄弟』という言葉の意味を学んだ。けれどある日弟の方が連れて行かれ、その次の日にはもう兄は壊れ始めていた。結局、数日後には兄も連れていかれ、二人とも帰っては来なかった。
 涙を拭い合う金髪の少年と黒髪の少年に意識を戻す。彼らには、あの兄弟のようになって欲しくない。
(……涙を流せるうちは、まだ大丈夫)
 声に出して慰めてやることもせず、僕は自己完結させた。涙も表情も何にもなくなったらそこで終わってしまうことは、これまでの子供たちで十分にわかっていることだった。でも、場合によってはその方が幸せかもしれないとも思う。ここは死と狂乱に挟まれた間の地だ。感情に囚われても、逆に感情を失っても、どちらかには転がり落ちてしまう。しかし手を繋ぎ合う彼らなら、きっとまだ生きられる。どちらにも堕ちないだろう。
 じゃあ、僕は。
 僕は……。
(大、丈夫……。この胸に積もる想いがあるうちは、僕もまだ、大丈夫だから。まだ、頑張れる、から……)
 胸に手をあてて、夢の残した痛みを必死にすくいとった。痛いだけじゃない。じんわりと、切ないような熱も燻っているのがわかる。顔も思い出せないあの人に会いたい。それまでは、生きていたい。僕はもう何回もそうして自分を奮い立たせていた。
(きっと僕は、この熱に生かされているんだ)
 きっとそうだ、きっと。きっと――。
(でも……)
 この苦痛の中を生き抜いて、果たして何の意味があるのだろうかと最近よく考えるようになっていた。夢の中の誰かは、やはり夢の中の住人でしかないのかもしれない。現実には存在せず、僕の願望が生み出した単なる偶像に過ぎないのかもしれない。もしそうであれば、この世界には親も家族もおらず、待っている人も迎えてくれる人もいないことになる。たとえこの冷たい部屋から抜け出せたとしても、外にあるのは水に近いぬるま湯だけだろう。そんなものに浸かったところですぐに冷めてしまうだろう。それどころか、中途半端な生温さを知った身体は少しの風にも簡単に凍えてしまうかもしれない。この小さく非力な身体では何も出来やしないのだ。
 そんな遠回りの絶望の中、僕はもうこの胸の灯火に縋るしかなかった。あの夢がくれた火は気まぐれに燃え上がり、熱をくれる。この熱だけが、僕を暖めてくれる。
(……僕を、助けてくれてるんだよね。そう、だよね。そう思っても、罰は当たらないよね……。お願い、消えないで。僕を暖めて。つらくて、寒くて、消えたくなるんだ。ここは寒い。夢の中の誰か。顔も思い出せない、誰か。どうか、どうか僕の傍に……――)

「……っ!」

 ハッと息を呑んだ。いつの間にか二人の少年がこちらを向いていたのだ。無意識のうちに長いこと見つめていたせいかもしれない。視線と視線がしっかりと絡み合っている。その泣き濡れた四つの瞳には、どこか見覚えがあるような――。
(……僕、は……彼らを、知っている……?)
 胸の痛みが炎に炙られたように熱を持って騒ぎ立てる。思い出せ、思い出せと。でも何を思い出せばいいのだろう。一体、何を。
 しばし見つめ合ったけれど、互いに言葉は出なかった。単に彼らは僕の出方を窺っていただけなのかもしれないが、僕の方は少し違った。本当に、言葉が出せなかった。
「っ、……、……!」
 何か言おうにも、言葉よりも先に懐かしさのようなものが込み上げて邪魔をする。なんとかそれを抑えて声を出そうにも、今度は言葉が一度に出て来て詰まってしまう。この溢れるような気持ちは、なんだろう。思い出せないこの想いは、なんだろう。
 きょとんとする少年たちに形容出来ないこの想いを伝えたくて、僕は声帯を震わせることに全身全霊をかけた。喉が軋む。胸も、頭も。
「……っ、……、ぁ――」

 ギィ……。

 ようやく小さいながらも声と呼べる音が出たのに、それは扉の開く軋んだ音に紛れて消えてしまった。僕は知っている。それが死刑台の音に等しいことを。
(ま、さか……!)
 すぐに扉の隙間から落ち着き払った足音が複数入ってきた。どんなに子供が泣き叫ぼうとも、決して声を荒げず淡々と子供を連れて行く白い死神の男たち。僕の瞳に空を見たあの子も、赤茶の髪の兄弟も、みんなみんなこの男たちに連れて行かれたのだ。
「来なさい」
 無機質な、機械で合成したような嫌な声が呼んだ。部屋に踏み入ってきた白衣姿の男の手が容赦なく華奢な腕を掴む。
 華奢な、腕。
「っ……!!」
 掴まれた腕は、なんということはない、僕の右腕だった。

(僕の、番……!)

 どっと冷や汗が溢れた。気持ちの悪い湿っぽさが服の間を流れ、ぶるりと震えが走る。
「……っ」
 怖くなんかない、恐ろしくなんかない、怯えてなんかない、と無駄なプライドが声を殺させたけれど、それでも喉の奥がひゅっと小さく鳴いた。歯を食いしばっても、生存本能のままに速度を増す心臓の音は外に聞こえそうなほどだった。
 本当は、怖くて怖くてたまらなかった。
 どうしようもなく、恐ろしかった。
 もう二度と戻って来られないかもしれない。
 この汚い小部屋に戻りたいわけではないけれど、でもまだこの気持ちをあの子たちに伝えていない。ちゃんと話したこともない。実験体としての番号ではなく、本当の名前を聞いていない。僕には親からもらった名前はないけれど、でも、僕は彼らに名乗りたい。
 僕の名前は、セエレ。そう決めたんだ。
 誰が呼んでくれたのかもわからないけれど、唯一夢から覚めても残っていたその音の連なりこそ、きっと僕の名前だから。
 彼らにその名を呼んでもらうまで、本当の意味でそれを僕の名前にするまで、僕は死ねない。
 未練があるんだ。やり残したことがたんまりとあるんだ。
 死ぬわけにはいかない。まだ、死ねない。
(まだ……まだ、死にたくない……!)

「や……ッ!」

 腕を振って白衣の男の手から逃れようとしたけれど、大人の力には到底敵わなかった。面倒臭いとでも思っているのか、僕の腕を鷲掴んでいる顔面がつぎはぎだらけの男は冷たい目で僕を睨めつけ、頭をわしづかんだ。次には容赦なく引っ張られて激痛が走る。涙が出て来るくらい痛かった。けれど必死に目元に力を込めて涙を堪えた。最後まで屈するわけにはいかない。こんなくだらないことで、泣いてなんかやらない。あの兄弟の兄の方が言っていたんだ。人は嬉しい時にも泣くのだという。弟が産まれた瞬間、オトウサンとオカアサンは泣いたそうだ。兄もまた、弟の小さな手を握って泣いたのだという。なんて素晴らしい涙だろう。泣くのなら、幸せを知ったその時に思い切り泣きたい。隠さず堂々と、恥ずかしげもなく、思い切り。声が震えても幸せを叫びたい。悲しみの涙なんて、絶対に流してやらない。
 こんなやつらの前で、泣いてなんかやるものか……!
(まだ……僕は……っ)
 痛みを堪えて頭と腕とを振った。けれど、そんな抵抗など大人にとっては戯れのようなものだったのだろう。もぎ取られそうなほど強く引かれれば、頭と体とが簡単に後ろに傾いだ。
「ぁ――」
 傾いだ視界。そこで、僕は衝撃に息をとめた。
(どうして……!)
 金髪と黒髪の、対照的な二人の少年たち。彼らが、何かを叫びながらこちらへ向かってくる。手を伸ばして、見ているこちらが痛いくらいの必死の形相で。

 ――僕を取り戻そうとしていた。

「ちっ」
「……!」
 頭上から聞こえた小さな舌打ちを合図に、別の白い大人たちが室内に入って来た。そして二人を容赦なく捩じ伏せる。
(あ……っ!)
 もがく彼を押さえつけた男とは別の男が少年たちに拳を振り上げるのがやけにゆっくりと見えた。まるで脳に刻み込まれていくような感覚だった。
「――!!」
 僕は声にならない悲鳴をあげた。
 金髪の少年の顔に拳が減り込む。その一方で黒髪の少年の腹には膝が入り、二人は倒れそうになった。しかし床に崩れ落ちる前にズタ袋みたいな白い実験衣の胸倉を掴まれ、壁に叩き付けられる。
「あ゛……ッ!!」
「ぐっ! ぅ……!」 
 そして、次は床に。
「ぐぇ……!!」
「ッ……!!」 
 やせ細って軽い少年たちは簡単に打ち付けられ、自身の血に汚れていく。
 けれど、それでも。
「ぅぁあああっ!!」
「ぁあああッ!!」
 それでも、少年たちは諦めなかった。大人たちに比べれば随分と短い手足を振り回し、逆に傷付けられていく。それでも、抗い続けていた。
(どう、して……!)
 少年たちの血まみれの手が僕へと伸ばされる。助けを求める手ではないことは容易にわかった。少年たちの瞳は真っ直ぐに僕を見据え、必死に言葉を紡いでいた。助けるための手を、決して諦めない手を差し伸ばして。
「だめ、ら……! いくな……!! いっちゃ、だめら……っ!」
「ぜった、い……いっしょに……っ……!」
 しかしその手は次の瞬間には大人たちの足によって無惨に踏みにじられた。骨の軋む嫌な音がした。
(やめ、て……!)
 頭の中で紅い光景が踊る。ぬるりとした感触が蘇る。覚えのない感覚は生々しく、喪失感すら伴って僕を締め付けた。胸が絶え間無く痛んで、内側から引き裂かれそうなほどだった。いや、心の奥で何かが血を流していた。激しく燃え滾る血。けれど、怒りそのもののようなその熱の隣で、暖炉の火のように僕を暖めるものがあった。僕を焼き尽くす悪意なんかじゃない。きっとそれこそ、僕が焦がれてやまない何かなんだ。
 だから僕は、抵抗をやめた。

「……従います、から。だからもう、やめてください」

 小さく、少年たちには聞こえないほどの声音で呟いた。少年たちには聞かせたくなかった。罪悪感など感じてほしくなかった。絶望を与えたくなかった。そんなもの、あの子達には必要ない。尊い勇気があればいい。純粋な優しさがあればいい。真っ直ぐな瞳のままで、いつかここを出た時に誇らしく生きられるように。暗いものは、残してはならない。
 抵抗をやめた僕を見て、つぎはぎ顔の男は僕の腕を放した。僕にはもう、逃げる気はなかった。
「や、ら……だめらぁ!!」
「いくな……!! いか、ないで……!」
 急に素直になった僕を見て、二人はがむしゃらに暴れた。間接がおかしくなりそうなほど、めちゃくちゃに。その姿の痛々しさに、また僕の胸は熱くなる。
(もう、いいよ。本当にもう、いいんだよ。その気持ちだけで、もう……)
 どこか穏やかな気持ちで、僕はそっと微笑む。

 ……ありがとう。

 口の動きだけで感謝の言葉を伝え、僕はあっさりと踵を返した。僕の顔も仕草も声も匂いも、あの少年たちの記憶に残しておきたくなかった。
 背中に悲痛な叫びが聞こえたけれど、足は止めない。白衣の男に促されるままに扉をくぐり、真っ白い廊下のずっと先に待つだろう処刑場のような実験室まで、もう止まるつもりはなかった。
 キィ、と甲高い悲鳴のような音が背中越しに聞こえた。扉の閉まる音だ。世界を隔てる音でもある。
 分厚く冷たい扉によって少年たちと僕の世界は完全に分断される。少年たちの声が一気に遠くなっていく。でもそれでいい。
(どうか、強く生きて……いつか、幸せに)

 ガチャン。

 声が、完全に聞こえなくなった。
 代わりに、扉を叩く音がドンドンと鳴り響く。あんなに強く叩いたら手の皮が剥がれてしまうだろうに。
(……本当に、ありがとう)
 僕は迷いなく歩き出した。相変わらず冷たいタイルを踏みしめて、迷いを振り切って。
 もし、生きて戻ることが出来たなら、その時は二人の名前を聞きたいな。
 もし、ここを出ることが出来たなら、その時は家族になれたらいいな。
 僕は君たちの名前を呼んで、君たちは僕の名前を呼んで。
 僕の、名前は――

『セ……、レ……』

「……!」
 掠れた声が聞こえた。頭に直接音を注ぎ込まれたような未知の感覚。
「ぅ、あ……っ?」
 ぐらぐらと視界が揺れた。意識が何かに持っていかれて急速に遠退く。足は勝手に動いて進み続けるけれど、意識はどんどん不鮮明になっていく。立っていられないくらいなのに、不気味なほど足取りは滑らかで、まるで何かに吸い寄せられているようだった。

『……エ、レ……ど、こに……セエ、レ……』

(なに、これ……? 何か、が、僕の、中に……ぁ、ちが、う、何が、呼んで……ぅ、あ、変、な、かん、かくが――)
 不可視の力に促されるまま、僕は抗うことも出来ずに一歩一歩確実に死刑台へと近づいて行く。足の裏に伝わるタイルの冷たさは変わらないのに、動作に通じる何かは完全に断ち切られていた。頭の中で掠れた声が僕を呼ぶ。何度も、何度も。
 そうしてついに実験室へ続く鋼鉄の重苦しい扉の前に来た時、ふいに右目がじくりと痛んだ。
「……あ゛ぁ……!!」
 ざわざわと眼球から何かが這い上がってくるような悪寒は、怯えているようだった。右目が怯えるだなどと、奇妙としか言えない。しかしそれを「変なの」の一言で終わらせられるほど、その疼きは悠長なものではなかった。
(な、に!? あ、ぁああっ、あ……!?)
 咄嗟に手で右目を押さえても、その程度で治まる気配はなかった。何かを訴えるようにずくんずくんと脈打って、どうしたって恐怖を煽る。自分が自分でなくなっていく気がした。
「……怖がることはない。これはとても名誉なことなのだ。我々エストラーネオの礎となることを誇りに思うがいい」
 何を勘違いしたのか、つぎはぎ顔の男は僕の頭を気まぐれに撫でて告げた。冷たい声と冷たい手だった。所詮は偽善でしかない。優しくなどない。想いなど込められてはいない。そんな慰めなどいらない!
「さわるな!!」
 ばしん、と大きな音を響かせて男の手を振り払い、僕は無我夢中で走った――
「……!?」
 ――いや、走ったつもり、だった。僕の足はぴくりとも動いていなかった。
(どうして……!?)
 いくら念じても、太腿を強く叩いても、神経が切れてしまったかのように下半身は動かない。さっきまで勝手に歩いていたのが嘘のようだった。
「ぅ……っなん、で……! ぐ……っ」
 嫌な汗を滲ませて必死に当たり前の動きを命じ続ける。なのに、なのに。
(どうして、動かない……っ)
 怖い。この先に待ち受けるものも、自分の身体すらも。どうしようもなく。
 右目の痛みが内側から叩かれているかのような激痛に変わる。
「助、けて……ッ!」
 ついには縋る声が飛び出した。もう堪えられなかった。プライドが砕ける音がした。何に対して怯えているのかも理解出来ぬまま、未知への恐怖に叫ぶ。
「たす、助けてっ! イヤ……! イヤだぁぁぁぁああああ!!」
「ちっ、錯乱したか」
 白衣の男が僕の腕を無造作に引いた。あんなにも僕の意思を拒み続けた足はすんなりと動いた。その事実に喉の奥が悲鳴を飲み込んでおののく。もはや自身の身体さえも信用出来なかった。
 ぺたり、ぺたり、と足は勝手に進み、僕の目の前で地獄の扉にも思える鋼鉄の塊は重苦しい音を立てて左右に開く。僕を誘うかのように。
 僕の身体は引かれるがままにその先の実験室へと進み、血と悲鳴の染み付いた寝台へ自ら乗り上げる。
「ヤだ……! やめて……お願いだから、やめっ……やめて……!!」
 ガチャガチャと腕を厚い皮のベルトで固定する手術着の男に縋るような視線を送っても、返って来たのは無機物を見るような冷たい瞳だった。そしてその男は意に介した風もなく注射器に透明な液体を満たして躊躇なく僕の腕へ突き立てた。直後、腕を基点に身体に異質な何かが巡る感覚はあっても、それで恐怖が薄れることはなく痛覚がなくなることもない。度重なる実験で、僕の身体は痛みから逃げることが許されなくなっていた。その薬は単に身体の自由を奪うだけで、僕を実験動物に貶めるだけの代物だ。顔のすぐ傍にてかてかと輝くメスや鉗子のすべては僕に痛みを与えるものになる。
(やッ、いやだ……いや……っ)
 痛いのは、嫌い。
 怖いのも、嫌い。
 嫌い嫌い嫌い!
 マフィアも、大人たちも、救いのないこの世界も、全部。
(死にたくない……死にたく、ない……!)
 もがくこともままならなくなる中で、せめてもの抵抗をと首を捩らせる。
「……っ!?」
 傍らで準備をしている男が、何かのビンから中身を取り出してうっとりとしているのが見えた。怖気の走る粘ついた水音が僕の意識を針のように鋭く尖らせる。僕は右目の痛みも忘れてその光景に見入った。いや、囚われた。
(……なに、それ)
 ちらりと見えたそれは、指で摘めるくらいの丸くて白くて、赤く濡れた糸みたいな何かがぶら下がった――眼球、だった。
「っ、ひ……!」
 まさか、と思った。嫌な予感を否定したかった。なのに、大人たちはそれを無理矢理肯定させるように僕の右の瞼を目一杯開かせて固定し、空の色だと言ってくれた瞳をあらわにさせる。右目の周囲を撫でる脱脂綿が冷たい。これは現実だ。現実なんだ。予感がみるみる形をとっていくのがわかった。
「や……だ! いやっ、いやだ、いやだいやだっやめてぇぇぇぇぇぅむっ!?」
 最後の抵抗も虚しく、僕の口には腐水の臭いのする汚い布が押し込まれた。涙がまた溢れそうになる。辛くて、悲しくて、希望などどこにもないではないか。まばたきすら封じられた視界は歪むほかなくて、けれどその水分はすぐに男の太い指に挟まれた綿で乱暴に吸い取られる。あくまで、手術の邪魔になるからという理由で。
「ぅ、っぐぅ、む……むっゥ!」
 壁際にいた白衣の男の一人が壁のレバーを下げる。大きな音と共に、手術灯の強すぎる光が照りつけた。焼けるようなそれに瞼を閉じようとしても、無理に固定された薄い肉はぴくりと揺れただけだった。身体はひどくだるいのに、眼球の表面を撫でる空気の流れすら感じ取れる。感覚は皮肉にも限界まで研ぎすまされていた。
「では、これより六道眼の移植手術を始める」
 低い宣言の後、つぎはぎ顔の男の手にメスが構えられ、ゆっくりと降りてくるが見える。メスが、迫る。
「うゥ! むぅぅうぐ!!」
(助けて……! 誰か、誰かっ、誰か…………!!)

 誰か。

 誰か……!

 ――ジョット!!







『――セエレ……?』







「……!」
 静かな声に眼球を巡らせれば、綺麗な紅色がすぐそばでこちらを見つめていた。恐ろしかったはずのその色は、紅葉の隙間から零れるような光を湛えているように見えた。

『セエレ……どこ……見え、ない……見えない……!』

 たくさんの息遣いに混じって、悲痛な叫びが確かに届いた。吸い込まれるような深い瞳の奥底で、いくつもの透ける手が何かを探すように彷徨っている。セエレ、セエレ、と名を呼びながら。
(……君、は……)
 何かが意識に深く浸透していくような心地よさが全身を包み込んでいった。膨大な記憶が走馬灯のように流れて行く感覚。初めてではない気がする。過去に――かつて骸になった時にも、この感覚を得ていた。懐かしい。ひどく遠い日の出来事のような……ああ、そうだ、僕は……。
 静かに心を満たしていく記憶に、僕は薄く微笑んで一粒の涙を零した。

(……探しに、来てくれてたんだね、)


 ――骸。


 冷たいメスが熱い血しぶきを上げて右目を貫き、その瞬間、たくさんの透明な手が、僕、を、
 




























 紅い瞳を捻り込んだ男は、右目に深々と三叉の短剣を突き立てられて倒れた。動揺が広がる前、理解に数秒の時間がかかった鈍い大人たちはまとめて首を引き裂かれ、血を噴出させながら地に伏す。そこへ一人一人刃を突き立て、“彼”は丁寧に丁寧に始末をしてやった。止めに入るつぎはぎ顔の男は、つぎはぎの通りに顔を分断してやった。とどめを刺すまでもなく絶命していた。そして次の部屋へ。そこには暢気にメスを洗う研究者がいたので、ぴかぴかのそれで胸を裂いてやった。そしてまた次の部屋で惨殺。更に次の部屋で虐殺。その次の部屋で鏖殺。それを嗤いながら繰り返して、“彼”はある部屋に辿り着いた。
 扉の中から悲鳴が聞こえる。子供の悲鳴だ。聞き覚えのある声の。
 躊躇いもなく扉を開け放てば、一瞬空気が止まったような錯覚を起こす。誰もかれも似たような大人たちが数人で黒髪の少年を手術台に乗せ、それを止めようともがく金髪の少年を別の数人が押さえつけていた。その全員が一斉に“彼”へと視線を集める。白い服を染める血の紅はやはり目立つらしい。ここの大人たちは皆、血に塗れているくせに。
「お前っ、実験体ナンバー――ぁふ!?」
 無用な口を喉ごと貫かれ、黒髪の少年を捕らえていた一人が奇声を上げて崩れ落ちた。
「貴様、何をしている!!」
 くすくすと小さく嗤い続ける“彼”に別の一人が迫る。しかし非力な子供相手に地下で実験を重ねるような男に、“彼”の動きが捉えられるはずもなかった。
「あ――」
 ぶつり。金髪の少年のすぐそばで男の首が半分まで断ち切られた。中途半端にぶらさがる首と目が合い、少年たちは息を呑んだ。
 “彼”はちらりとそちらへ視線をやったが、すぐに目の前の獲物に狙いを定めて短剣を振り上げる。
「や、やめ……っ!」
 短剣を勢いよく振り下ろせば、金髪の少年を押さえていた男は顔の中心に大穴を開けて沈黙した。残るは一人。
「お、お前は、自分が何をしているのかわかっているのか! こんなことをすれば、おまぁああ゛あ゛あ゛ァッ!!」
 長い断末魔を最後に、その部屋は静まった。動けないでいる二人の少年たちの心臓のどくどくと急ぐ鼓動が僅かに聞こえた。
 “彼”は最後の一人を貫いていた三叉の短剣を引き抜き、その身体が血の海に沈む様を片方だけの蒼い瞳で見下ろした。くすり。青みがかった黒髪を揺らして、“彼”は嗤う。そしておもむろに右目を覆う邪魔なガーゼを取り払い、紅く染まったタイルに落とした。眼帯の下から現れた眼もまた同様に紅く、『六』の文字が妖しく揺らめいていた。

「……クフフ、やはり取るに足りない世界だ」

 くだらない。くだらない。何度見ても変わらない世界の醜さを嘲笑う“彼”に、以前の静かな面影はなかった。セエレの魂は膨大な六道骸の魂の水底に沈み、あとには刻み込まれた痛みと妄執に囚われた骸だけが残されていた。“彼”は六道骸。繋ぐもののないばらばらの魂達が集った、不完全な骸。重なり合った深い闇の先は、誰にも窺えない。

「全部消してしまおう」

 空虚な心のままに、骸はくだらない世界を愛でる。そして、吐き捨てる。醜いものはすべてなくしてしまえばいい。奇麗なものだけが残ればいい。そうすればきっと最後の一人も見つかるはずだからと、それが自身の内にあるとも気付かずに。
(クフフフ、消えてしまえばいい。僕を、僕らを、傷付けるもの。苦しめるもの。奪うもの。醜いもの。すべて)

 そう、まずはマフィアから。

 血を吸った短剣を握りしめ、骸はほんの少しだけ振り向いた。見知った顔が二つ、恐怖も忘れて呆然とこちらを見つめいた。骸と同じ、実験体の少年たち。どこか懐かしい匂いのする、優しい……奇麗な世界で生きるべき、子供たち。その手は皮がめくれていて、ぽたぽたと血を垂らしている。それはどんな聖痕よりも尊い証のように思えた。
 だから。

「一緒に来ますか?」

 骸の静かな問いに、彼らは――。
























 骸と共に地獄を抜け出した二人は本名を持たなかった。彼らもまた、親を持たなかったから。その代わり、骸が戯れに与えた『犬』と『千種』という日本名を彼らはそれはそれは気に入っているようだった。大切な人にもらった宝物のような名前を披露したくて仕方がないらしく、お互いに無意味に呼び合っては楽しそうに笑っている光景は目に馴染んだものだった。
 そんな時代は、今ではもう随分と昔のことになったけれど。
(……並盛中学校の方は犬と千種にまかせれば大丈夫ですね)
 ボンゴレ十代目が日本にいるという情報を得てから、骸の動きは迅速だった。焦りとも違う何かが無意識のうちに駆り立てていたからかもしれない。
 そうして呆気なくイタリアの牢獄を抜け出した骸は犬や千種と共に日本へ渡り、ボンゴレ十代目と親しいと言われるフゥ太という少年を捕らえた。思いのほか頑固な少年の扱いには手を焼いたけれど、ボンゴレ一派をおびき出すことはまだ可能だ。問題はない。
 けれどただ待つのもつまらないと、捕らえた獲物で遊ぶことを覚えたのは果たしていつのことか。
「クフフ……」
 暗いながらもぼんやりと浮かび上がるその人――雲雀恭弥を見下ろして、骸は嗜虐的に微笑んだ。少しの歓喜と少しの苛立ちとが骸の中に同居していた。雲雀はどんなに傷付けても決して屈することはなかった。孤高という言葉が似合う人間だった。拷問と呼んでいいほどのことをしても、ただじっと骸を見据え続けるその瞳の真っ直ぐさは、何かを思い起こさせる。それに気付くたびに、苛立ちが僅かに膨らむ気がした。
「……生意気な顔ですね。でも、もう少し身体で抵抗してみせたらどうですか? あまりに一方的だとさすがに飽きてきますよ」
「…………」
 雲雀からの返答はない。
 かれこれ数時間前より、骸が何を言おうとも雲雀は無言を貫いていた。おそらくはこうなる以前、雲雀が骸とはもう口をきかないと宣言していたことから端を発するのだろう。屈折を知らない眼光だけが骸を刺すように射抜き、胸の奥を抉る。目は口ほどに物を言うことを立証するのに、きっと彼はうってつけの人材だ。漆黒の瞳に宿る意志は誰よりも強い。
(……この、瞳。僕は、どこかで……でも、どこで……)
 何かが引っ掛かっていた。けれどそれをすくい上げることは出来ずにいた。もどかしさに焦れながらも、骸は表情だけは決して変えなかった。感情をむやみに表すのは得策ではない。
 しかし雲雀はまるでそれを知っているかのように静かで、見透かされているような錯覚が骸の中に産まれる。檻の中の動物を見ているうちにいつの間にか逆になっている夢のような、そんな後味の悪さばかりがあった。
「……ご存知ですかねぇ。可愛いげのないホトトギスは、鳴くまで放置されるか鳴かされるか殺されるかだそうですよ。雲雀の場合、どうしたらいいんでしょうね?」
「…………」
「何か言ったらどうです」
「…………」
「まったく、あなたという人は……」
 はぁ、と息を吐いて、骸はおもむろに雲雀の脇腹へ加減なく爪先を減り込ませた。
「ッ――!」
 息を詰まらせる気配を最後に、雲雀は目を閉じた。しかしこれで少しは溜飲が下がるかと思えば、むしろ倍加したようにすら思えた。
「……頑丈過ぎる玩具も考えものですね」
 軽く頭を振って、骸は苛立ちごと雲雀を置き去りにしようと踵を返す。

『……早く還っておいでよね』

「っ!?」
 ばっ、と空気が音を立てる勢いで振り返る。が、雲雀は変わらず気を失ったままだ。
(……今、何か)
 何か、大切な言葉が――。
「……厄介な人ですね、あなたは」

 ――今も昔も。

 自然とそう思えて、骸の奥底は奇妙な懐かしさに揺れた。














 ボンゴレ十代目が確実に自分の元へ近付いてくるのを、骸は当初の予測よりも遥かに喜ばしく感じていた。待ち焦がれたような、熱い感覚。森の中で一目見た時から、何かが加速度的に進んでいく。もうすぐ、もうすぐと心がざわめいて仕方がない。
「ボンゴレ十代目……か」
 かつては華々しいフィルムを映していただろう暗い舞台、その中央に置かれたぼろぼろのソファーに腰掛けて、骸はひとりごちた。名前にすらなっていないその呼称を出すだけで、ただそれだけで心臓がひとつ多く脈打つのは何故だろう。ほんの少しだけ心が凪ぐのは、何故だろう。
(……似ていた。誰かもわからない、誰かに)
 記憶をあさることの無意味さはもうとっくにわかりきっていたけれど、それでも骸はたくさんの記憶の扉をひとつひとつ丁寧に開けていった。前世の自分、その更に前世の自分、更にその先。しかしその旅路はあるひとつの人生で一旦途切れる。もちろんそこがすべての始まりなどではなかった。六道骸という存在の業は、そう浅くはない。事実、その生の前にあたる生のことは、はっきりと思い出せる。その時骸は雌の蜘蛛だった。何をするでもなく、本能のままに獲物を捕らえて生き延びる日々。そうしていつしか卵を産み、やがて孵った我が子達に喰われておしまい。それ以前の生も似たようなものだった。本能のまま意味もなく生きて死んでを繰り返すだけ。人間に生まれたところで、死因のバリエーションが増えるだけでそれは変わらなかった。
 思い出せない前世を境に、六道骸の生き方は大きく変わった。餓死寸前のごとき魂の飢えに冒されながら、欠けた自分を探している記憶がある。最初の頃はその理由を理解していたような気がする。その先に待つ人を、覚えていた気がする。けれど、一人見つけては自分を殺し、また一人見つけては早く次へと自殺し続けるうちに、それは歪んでしまった。探さねばならない、戻らねばならない、会いに行かねばならない、それはわかるのに理由がわからない。衝動のままに廻り続けて、今もまた探している。真実を見落としながら。
(最後の僕……それに、大切な誰か。紅い海で、約束をした……誰か)
 ……わからない。どうしてわからないのかも、わからない。
 飢餓感ばかりが身体を蝕み、急き立てる。
(早くこの世界を純粋な血の海に変えなければ。美しい紅い海の中で、約束は果たされる……)

 ――かちゃり。

「……!」
 古く軋む扉がゆっくりと押し開かれた。その隙間から、恐怖を隠しもしない幼さの残る顔がちらりと覗く。びくびくと震えるほどに怯えているにも関わらず、仲間のために足を止めない、彼。イタリア最大のマフィア、ボンゴレファミリーの十代目。
 身体に刻み込まれた痛みがじわじわと骸を追い立てる。マフィアを、滅ぼせと。
 そして――約束を、果たせと。

「また会えてうれしいですよ」

『あなたに、』
      『会いたかった……』

 たくさんの声が、沢田綱吉を迎えた。





















 何かに導かれるように、戦った。犬と千種の身体まで酷使して、恨まれても仕方がないほどに傷つけて。醜い力に身を染めて、すべてを費やして、血を流して。綱吉の焔を感じるたび、骸の右目の奥は熱くなった。懐かしい声が、聞こえた気がした。

(懐か、しい……?)

「うおおお!!」
 綱吉の咆哮が轟き、橙色の輝きがその両手に広がった。焔が古い壁を舐めるように噴射され、骸によって蹴り飛ばされた衝撃を相殺する。
 そのまばゆい光を、骸は知っていた。

(なつか、し、い……)

 戸惑いが生まれた。動けなかった。誰かの透明な手が、骸を内側からそっと繋ぎ止めていた。

(僕は……知って、いる。そう、だ……僕を、護ってくれた……。僕を、叱って……抱きしめて……解放、してくれた……?)

 あなたは――。

 綱吉の手のひらが鋭く迫る。不思議と危機感は感じなかった。何か、待ちわびたような心地すらある。それに、ほんの少しの悔しさも。
(……やっぱり、あなたには敵わないな……)
 抗う間もなく綱吉の手の平が迫り、骸の顔面を覆う。焔が視界を閉ざした。



「あ……」
 



 額の裏側から鮮烈な白が溢れ出した。身を焼くかと思うほどに強いその光とは裏腹に、それは春の陽射しの穏やかさを持ち合わせていた。そしてふわりと骸の視界をベールのように優しく覆い尽くし、白に染める。目を開けているはずなのに何も見えない。ひたすらに白い。けれど眩しくはなかった。
 不思議に思う間もなく、どこからともなくぶわりと唐突に風が吹く。その風は扉が開いた時の吹き付けに似ていて、有り得ないことに光を霧か何かのように吹き飛ばしていく。
「……!」
 突然開けた視界に注ぐ色付いた光の眩しさに、骸は思わず眼をつむった。視界を失ったことで感じるものがあった。さわさわと草木の揺れる涼やかな音。永続性を感じさせる水のせせらぎ。雲の流れる眠くなるようなゆったりとした音。葉の落ちる乾いた音。遠くの方から響き渡る澄んだ鳥の声。蝶のはばたく軽やかな音。愛を歌う虫の声。ぴちょんと小さく聞こえたのは、魚が跳ねた音だろうか。
 小さな音があった。大きな音があった。散る音があった。生まれる音があった。世界の動く音があった。そしてさらりと薫る、懐かしく甘い香り。
(この、香りは……)
 恐る恐る瞼を開けると、焼け付くような鮮やかな赤い光と優しく包み込むような淡い青の光とが同時に差し込んだ。まず眼に飛び込むのは、海を薄めた色合いの広い広い空。大きく育った白い雲がまるで生き物のように空をゆるやかに泳ぎ、鮮やかな青を引き立てる。空の先、水平線を境に広がるのは湖か。途方もなく広いのに、波はなく風のなすままに揺れ動いている。一転してその縁から広がるのは、ただ一面の紅だった。生き生きと天を仰ぎ微風に揺れて贅沢に紅色を振り撒いている花の名は、彼岸花。それはまるで紅い海のように、絶え間無くさやさやと揺れていた。
(紅い、海……そう、だ。紅……彼岸花の……!) 
 思い出した。約束の場所はここ。血の海なんかじゃない、もっと高潔で、凛としたこの場所だった。
「……!」
 ぶわりと突風が骸の視界を閉じさせる。彼岸花の香りを高く運んだ後、風は止んだ。
 骸は瞼を開いて、は、と息を呑んだ。
 紅い海の中心に、見覚えのある小さな姿がぽつりとあった。今の骸とは少し違って、けれど遠い過去のある時代で重なる顔立ち。あの人が撫でてくれた、青みがかって見える艶やかな黒髪。あの人よりも大きくなりたいと願っていた、小さく華奢な子供の身体。そして、少しだけ違和感を覚える蒼い両の瞳。それだけが塗り間違えてしまったかのように骸と違う。いや、塗り間違えたのは骸の方なのかもしれない。
「……ぁ……っ」
 忘れていた何かが、暗く塗り潰されていたはずの記憶が溢れた。それはとても眩しくて、内側から空に溶けていくかのように一瞬のうちに広がっていく。悲しかったこと、嬉しかったこと、傷付けたこと、傷付いたこと、失ったこと、得たこと、泣いたこと、笑ったこと、願ったこと、くじかれたこと、叶ったこと、叶わなかったこと、別れた人、探していた何か――。
 欠けたピースが瞬く間に組み合わさって、輝かしい日々がひとつひとつ蘇る。そこに憎悪など入り込む余地はなかった。優しい感情が湧き出してとまらない。内側からの光に影は揺らぐ。癒えぬ孤独を分かち合った子供の姿は、異色の瞳に被さる水の膜によってゆらゆらと歪んで見えた。

「セ、エレ……っ」

 ようやく辿り着いたその名前を口にすれば、もう感情の波を抑えることは出来なかった。
「セエレ……セ、エレ……! 僕は……! 僕、は……!!」
 堪らず骸は顔を覆った骸は、いつの間にか子供の姿になっていた。蒼い両目を穏やかに細めて微笑む彼――セエレと瓜二つの、小さな身体だった。暖かな手を、お日様のような匂いを、穏やかな声を、時に厳しく叱る声を、幼い身体は覚えていた。
 かたかたと動揺のままに震える小さな骸の肩を、歩み寄ったセエレの腕がそっと抱き寄せてくれた。まったく同じ低い体温が言いようのない安心感を与えて、泣きたくて仕様がなかった。一度は分かたれた、けれど同じ心がここにあるのだ。こんなにも、傍に。触れた途端に深い深いところから溶け合うような暖かな感覚があった。ようやく満たされる。長年の飢えから解放され、懐かしい心を取り戻せる。
「やっと……やっと、見つけた……っ」
 ぎゅ、と互いの腕に力を込めて、同じ顔の二人は引き合う魂を強く確かめた。
「大丈夫。もう、離れない……絶対、離れないよ。僕はもう、骸なんだから」
 セエレは花がほころぶように淡く微笑んだ。淡く。淡く。淡く。風と、光と、世界と、骸と、ゆっくりと溶け合いながら、セエレは骸に還っていく。形をなくしつつある唇が、そっと骸の耳元に寄せられた。
「さあ、泣くにはまだ早いよ。泣き虫の、骸」
 景色に透ける指が形をなくす直前、セエレは促すように骸の背後を示した。
「ほら、約束の時は、今、ここに……――」
 骸の中でたくさんの透明な手が絡み合い、繋ぎ合い、互いの存在を誰よりも深く認め合った。そして、ふと思い出したように風が揺らぎ、セエレは音もなく消えた。この世界へと。骸へと、還っていった。
 さわさわと静かに彼岸花が揺れ、セエレの残した風が声を運ぶ。


「彼岸花の花言葉、知っていたか?」


 少し高めの、けれど落ち着いた声音。少年のようなイタズラっぽさを僅かに残す、大好きな声だった。
「……っ」
 ゆっくりと、時が引き延ばされたかのように緩やかに身体を振り向かせながら、骸は瞳が潤うのを止められなかった。
 緩やかな風が彼岸花の花びらを空へと運び、空に広がった紅色は二人の間をひらひらと雪のように舞った。紅い海の真ん中に、その人はいた。
 ずっと。ずっと、ずっと。

 ――会いたかった。

「……ぅ……、っぇ、く……っ」
 永い時を経ても色褪せなかった想いが雫となって骸の色違いの眼から零れ落ちた。それはぽたりと彼岸花を揺らし、揺れた彼岸花は隣の彼岸花を揺らす。そうしてまたひとつこの世界は動き出した。あの日のまま凍り付いていた“六道骸”の時間が、ようやく。骸達はひとつの想いの元に完全に溶け合い、もう決して分かたれることはないだろう。
 彼岸花が起こした微風は涼やかな風となり、風が花の香を運ぶ先に、彼が立っている。両手を広げ、骸を迎えるように。好き放題に伸びた金色の髪はふわふわと彼岸花に合わせるように揺れ、琥珀色の瞳は光を反射して雲母のように輝く。見慣れた大きめの黒い外套はちょっと気取っているようで、服に着られているような印象を与えた。子供みたいな幼さを残す顔で穏やかに微笑むその姿は、全てを包む大空よりもなお、眩しくて。

「待たせてごめんな、骸」

 待ちこがれた声で、名前を呼ぶその人。
「……っ、ぁ……、っ、……!」
 言いたいことがたくさんあった。何度も、何度でも、名前を呼びたかった。けれど唇は意味もなくわなないて、言葉になってはくれなかった。
 だから先に身体が動いた。もつれる足を必死に動かして、少しでも傍へ。あなたのもとへ。
「……っ!」
 いたずらに伸びた蔦につまづいて、骸の身体は前に傾いだ。骸の胸の内でイタズラが成功したような愉しげな笑い声が響く。けれど、骸の身体が土に落ちる前に、力強い腕がしっかりと受け止めてくれた。そしてそのままぎゅっと抱き寄せられる。懐かしい。愛しい。細いくせに大きくて、その胸は薄いくせに頼もしくて、その身体はただ暖かい。堪らずきらきらした髪に頬をすり寄せれば、干し立ての布団みたいな懐かしい匂いが骸を包み込んだ。そのまま背中を熱い手でぽんぽんと優しく叩かれれば、もう感情は堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
「……、っく……、ジョ、ット……っ、ジョット……会いた、か、った……!」
 しゃくり上げながら子供のように泣き出した骸の温もりを確かめて、ジョットはゆっくり、噛み締めるように囁いた。


「……おかえり、骸」


 骸は知っていたのだろうか。
 彼岸花の花言葉は、『悲しき思い出』。

 そして――


































 野球場で母親の顔をする他人の隣に腰掛け、兄だという見知らぬ少年を応援しながらも、少し離れたところにいる騒がしい一団に視線を向ける。
 まったく何をしているのやら、先ほどまでどこぞの侍によく似た黒髪の少年を応援していたはずが、どこかの誰かを思わせる銀髪の少年はダイナマイトを振り上げるわ、妙に熱い性格が誰かとそっくりな灰色の髪の少年は応援とは真逆の大声を出すわ、誰かをそのまま小さくしたようなもじゃもじゃ頭の子供は無闇やたらと飛び跳ねてスナック菓子をぶちまけるわで大変なことになっていた。本当に応援する気があって来たのか、少々疑わしいくらいである。
 ああ、ひとり足りないけれど、あの凶暴な男ならどこかで昼寝でもしているのかもしれない。彼はいつの時代も自由だから。
「みー君、そろそろ行かないと」
 母に手を引かれて、僕は仕方なく立ち上がった。一応まだ試合の途中だったのだが……。まあ、元々試合を見たくてこうしているわけでもないし、もう既に勝負の結果は決まったようなものだったから構わないけれど。
「うん!」
 子供らしく返事をして、母の横に並んで歩き出した。

「ファールいったぞー!」

 その直後、カキン、といい音がして、結構な勢いのある白球が青空を駆け抜け、一団の真ん中へ落ちるのが見えた。あれは誰かしらに当たるのではなかろうか。
「ビアンキ!!」
 それをイタリアの血を感じさせる女性があっさりと捕った。と同時に、ダイナマイトを持って勇んでいた銀髪の少年が何かを吐き出しながらバタリと倒れた。……わけがわからない。まったく、何を愉快なことをしているんだか。右腕として最悪の失態では?
「ちょっ、獄寺君、大丈夫!?」
 騒ぎのド真ん中と言っていいだろうポジションにいるにも関わらず、随分と平凡な細い少年は大慌てで銀髪の少年を揺すった。細かなことにもいちいち反応してくるくると表情を変えるのが、どこか遠くの出来事のように見えた。

「え……?」

(……!)
 ふいに、本当に何の前触れもなく彼がこちらを振り向いた。
 目が、合った。
 思わずごくりと唾を飲み込みかけて、やめた。気付かれても面倒だ。
「…………?」
 彼は不審そうに首をひねったけれど、すぐに苦しむ友人に意識を戻した。実際見つめ合った時間はほんの一瞬だったかもしれない。けれど、それだけで僕は満足だった。
「みー君、お兄ちゃんがんばってたねー。ごほうびにお夕飯、何にしてあげよーか?」
「うんとねぇ……ハンバーグ!」
 母にゆったりと声をかけられ、子供が好きそうなメニューを口にする。しかし、それは昨日食べたらしい。さすがに昨日からずっと憑依していたわけではないので、そこまでは知らなかった。
「また今度にしよーね」
「うん!」
 家庭的な会話を穏やかに交わしながら、子供の小さな足で野球場を後にする。背後では明るく賑やかな声が途絶えることなく続いていた。遠い世界。けれど、同じ世界。手を伸ばしても届かないけれど、走ればきっと届く距離だから。
 だから。
 また、今度。
 必ず、あなたに会いに行きます。
 道は違えてしまったけれど。
 マフィアに対する怨念はまだ消えないけれど。
 素直になれない、僕だけれど。
 その時は、どうか優しく迎えてくださいね――僕の、一番大切なあなた。


「また、いずれ……」

 
 彼岸花の花言葉は、『再会』……

 胸の奥で、紅い花がそよ風に揺れた気がした。





























――はい、これで長い長い連載は完結となります。
本当に長かったです……。
なんでしょうねぇ。語りたいことは多々あれど、果たしてここで語るべき事柄なのか。
この話を読んで何かしらを感じていただけたなら、それで本望でございます。

それから、ご存知の方も多いかと思いますが、この『比翼の鳥』という物語は管理人にとってとても意味のある物語であり、本という形で残すことになっています。
まあ、ようするにオフですね。
詳しいことはoffページを御覧くだされば大体のことはおわかりになると思いますが、本の方ではこの最終話のその後の話、具体的に言うなら骸さんが水牢から帰って来た時の話が入ります。
ここまで読んでくださった方はひょっとしたら予想がつくかもしれませんが、21話の中心となった部分が関わってきます。
あんまりここで言うのもあれですのでここらへんで留めて置きますが、そちらもお読みくださいますと骸さんとジョットの決着として、また骸さんと綱吉の始まりとして爽やかに終われるかと思います。

ただ、アンケートをとらせていただいた結果、現時点(2/28)で「再録してもいいと思う」というご意見が圧倒的に多く、大体9割ほどです。
なのでお言葉に甘えまして、WEB再録はずっと先ではありますがいつかはやろうと思います。
オフ本は上下巻で2冊あり、かつ多めに刷って単価を落としてもそれなりの値段になります。買えない方はお待ちくださればいつかは読めますのでご安心ください。
買ってくださる方は、本当にありがとうございます。大好きです。

では、ここまで読んでくださった皆様、そして応援してくださった皆様、本当に本当に、ありがとうございました。


2009.2.28