023.















*お願い*

この23話で初代編は終わりです。最終話となる24話は現代編になります。
ここまでお読みくださった方は、今回の話の結末の予想が立っているかと思います。
その通りです。なんのひねりもありません。ひねる必要もないと考えております。
ゆえに、結果的に今回の話が若干注意の必要なものであることも、なんとなくおわかりになっているのではないでしょうか。
私がここでその内容を語ることは出来ませんが、ひとつ言えるのは、この『比翼の鳥』という長い物語の本当の最後は幸せに終わるということです。

今回の話の性質上、不快感を持つ方がいらっしゃる可能性は否定できません。
ですが、管理人としても思い入れのある作品ですので、どうか最後までお付き合い願えませんでしょうか。

長々と語って申し訳ありませんでした。
この話が受け入れられることを願っています。

















































































 半焼と言うには少し黒ずみ過ぎた屋敷を前に、ジョットは細く息を吐いた。腹の傷はじくじくと痛み、足はふらつく。でも、ここから先は誰の手も借りずに進みたかった。
「時雨、ここでいい。ありがとう」
「ああ」
 少しでも楽になるようにと貸していた肩を外し、時雨は一歩距離をとった。ジョットは途端に喉の奥で悲鳴をせき止め、腹を押さえる。やはり自身の体重をすべて支えるには傷は深過ぎた。だが、倒れることだけは絶対にしない。
「……ここで、待つ」
 行くな、と言いそうになるのを堪えて、時雨は傍にあった木にもたれて腕を組んだ。きつく、決して手を伸ばさないように。足は木の根にぴったりと貼り付けた。幹が削れるほど強く、決して駆け寄らないように。
「すまないな。ちょっと、行ってくるから」
「必ず、帰って来るんだぞ」
「ああ、必ず」
 力強く頷いて、ジョットは歩き出した。ありとあらゆる痛みを押し殺して。












 木々の合間を縫うような細い坂道をのぼり、少しずつ近付くよく知った気配に、ジョットの鼓動は自然速まった。痛みのせいかぼやける視界はまるで幻の中にいるような、夢の中に迷い込んだかのような錯覚を引き起こした。しかし鼻孔をくすぐり始めた彼岸花の香りはここが現実であることを証明してくれている。薄蒼い月明かりの中でそれだけは確かで、導くかのようだった。
 朱色と紅色の間のような、彼岸花。きっと、骸がいなければ道ばたに咲く多様な花々のうちのひとつとして見過ごしていただろう、鮮やかな花。特別好いてもいなかった。そういう花があることは知っていたけれど、知っているだけで終わっていた。でも今は、花としてだけではなく、まったく別の価値を見いだしていた。きっと骸もそうだろう。
(彼岸花の花言葉を、骸は知っていたのかな……)
 趣味が高じて庭師となったレッツォから彼岸花の花言葉を聞いた時は、随分とドキリとしたものだ。彼岸花の花言葉は、『悲しき思い出』。でももうひとつ、強い願いを込めた言葉がある。それを骸は知っていたのだろうか。それとも単なる偶然か。
(……偶然も必然に変わる。でも、運命なんて俺は信じない。奇跡なんて現実味のないものも好きじゃない。貴いのは、願いだ。人の意志こそ、きっと――)

「そうだろう、骸?」

 さわさわと、開いたばかりの若い彼岸花が紅い軌跡を残して揺れていた。その先のぽっかりと円形に空いた空間に、慎ましく鎮座する墓石がある。そこに寄り掛かるように、黒い布――見覚えのある漆黒の上着に包まれた子供が静かに眠っていた。柔らかな風が吹く度に頬にかかる滑らかな紺色の髪はさらりと流れ、長い睫毛は時折思い出したように揺れる。まるで人形のように整っていたはずの顔は、しかしあまりにも変貌していた。その顔の右半分は右目から溢れ出したような紋様に支配され、闇色に浸蝕されていた。それは人種などに左右されるような色ではなかった。まるで井戸の底に溜まっているような闇。光を吸い込み続ける、深過ぎる漆黒。
 悲しげに眉を寄せて、ジョットは骸のすぐ前で膝をついた。
「……少し、待たせちゃったな」
 迷うことなく骸の痛ましい頬に触れれば、その冷たさに胸が痛む。氷のよう、なんて現実味の薄い温度ではなかった。人間が死に近付いた時の生々しい冷たさで、だからこそつらかった。小さな呼吸音を確かめても、ほんの僅かな安心感すら湧かない。骸はもうこちらには戻って来ないのだと、どうしてかわかってしまう自分に嫌気がさした。まだ間に合うのではないかという淡い希望の芽すら許されないのか。
「……揺らぐな。覚悟を、決めたはずだろう」
 可能性という可能性すべてに縋り付こうとする己の弱さを諌め、ジョットはそっと骸の手をとった。待たせては、いけない。
「今、行くから。骸……」
 ゆっくりと顔を近付けて、こつりと額と額をつける。間近に骸を感じながら、目を閉じれば、温い闇がジョットを包んだ。
「さあ、俺をお前達のもとへ連れていって……」
 願いを口にすると、骸はほんの僅かに震えたようだった。それを合図にジョットの意識は急激に遠退いて、何かに吸い込まれるような錯覚をもって完全な暗闇にのまれていく。
 とさりと、軽い音。ジョットは骸の隣に寄り添うように倒れた。
 そこへ黒尽くめと表現するには上半分が白い男が歩み寄り、膝をつく。そして壊れ物に触れるような丁寧さで骸の手とジョットの手をしっかりと繋がせてやった。普段その男を知る者からすれば珍しいと評するだろう行動だった。
「……後は君たち次第、だよ」
 骸を冷たい風から護っていた上着を回収することもなく、彼はもうすべきことはないとばかりにあっさりと踵を返す。ここから先はもう、誰も手出しをしてはならない領域だ。不器用な親子の邂逅には、祈りすらも必要ない。求めるものは、きっとひとつだけだから。
「じゃあね、ちびっ子。また、いつか」
 また、いつか。どこかの未来で。
 孤高の浮き雲はそれだけ言い残し、彼岸花の中を歩き去った。







































「ぅ……」
 まどろみの中にいるような感覚に襲われながら、ジョットは目を開けた。顔のすぐ脇には、落ちた彼岸花が静かに横たわっている。目に痛いくらいの真紅は褪せ、落ち葉色に移行しつつあった。しかし乾き始めているそれは風に飛ばされることはなく、それ以前に風自体が存在しなかった。その欠落感に、ジョットは確信した。
(来れた……んだな)
 少し重く感じる身体を動かして、なんとか起き上がる。痛みはなく、傷など忘れられてしまったようだ。頭を振って意識を鮮明にして辺りを見回してみると、視界のほとんどを埋め尽くす彼岸花は、やはりどれも枯れ落ちていた。剣山のように残された茎も、そのほとんどが朽ちかけていた。終わりが近いのだ。

 ひっく……っ

「……!」
 天から落ちてきたしゃくり上げるような声に、ジョットは空を仰いだ。

 う……ぇぐっ
 
 視点を定めるべき星もない曖昧な薄闇の中で、確かに子供の泣き声が遠く響いていた。姿は見えないが、感じる。
 ジョットは直感のままに眼を閉じた。
「おいで、骸」
 囁くような言葉に、空間を満たす大気が震える。暑さも寒さもない世界が、ほんの少し凍えた。
 そして次に眼を開けた時。

「っく、ぅえっ……ひぐっ…………ぅ……っ」

 ジョットから少し離れたところに、堪え切れずに鳴咽を漏らす子供がぽつりと立っていた。黒い右手と白い左手で流れ落ちる涙を拭い、止め方がわからぬように泣き続けて、ただただ独り――。
「……骸」
 出来得る限りに鎮めた声で、名を呼んだ。ぴくん、と子供の肩が揺れて、鳴咽が止まる。しばしの沈黙が訪れる。しかしゆっくりと子供の手が下ろされ表情が露になった瞬間、それは壊れた。
「クフフ、そうだ……。あなたがずっとここにいてくれれば、僕は独りじゃない」
 濡れた顔は、満面の笑みで彩られていた。けれどそれは、大切な何かが欠けてしまった笑顔だった。消えた骸の満ち足りた笑顔とは真逆の、からっぽの瞳。その子供――変わり果てた骸は、しきりにそうだ、そうしよう、とうわ言のように呟いてけらけらと笑う。涙をぽたりぽたりと流しながらも、楽しそうに。
「あなたがいれば、僕の痛みはなくなるのです。あなたが抱きしめてくれれば、僕は幸せになれるのです」
 泣きながら笑い、笑いながら泣いて、まるで盲目的な聖職者のような表情だった。
「そうしたら、この気持ち悪い身体も、きっ……と……?」骸は何かに気付いたように笑顔を固めた。
「あっ、あぁ……ッ!! や、いやだ、見ないで……! 見ないで下さい!!」
 お願いですお願いですから、と繰り返して、骸は再び顔を覆った。特に、闇に冒された右半分を。
 まるで人格が定まらず、骸はあるべき姿を見失っているように見えた。魂の断片を無理矢理に繋ぎ合わせてひとつにしたような、そんなちぐはぐさだった。いや、実際そうなのかもしれない。
「骸……」
「痛いん、です……苦しいんです……! もう……っ……あ、あぁ、そうだ、あなたをここに――違うっ、そんなこと……!」
 忙しなく表情を変えながら、骸の手は宙を漂った。内なる葛藤そのままにそれは揺れ、そしていつしか三叉の短い剣を握っていた。
「あなたさえ……あなたさえ最初からいなければ、僕らはこうも壊れなかった!!」
 その瞳に悲しみと憎悪とを同時に宿らせて、骸は吠えた。何かに縋らねば立つことも適わず、そうして骸が縋ったものは、右目から湧き出す怒りだったのだろう。
(……お前の怒りも、悲しみも、全部俺が受け止めて、そして――)
「やり直そう。未来で、もう一度」
 決意を焔に変えて、ジョットの額と拳は眩しい金色に輝いた。

「さあ来い。今を乗り越えて、再び出会うために!」

 二人の間に橙の焔と暗い焔が爆ぜて、次の瞬間には骸の短剣が真っ直ぐ突き上げられるのが視界に飛び込んだ。
(浅い!)
 右の拳で軌道を逸らし、勢いを殺す暇も与えずに左の掌打で迎え撃つ。しかし骸の顎を 狙ったそれはするりと簡単に横に避けられた。
(身体が小さい分、小回りがきくのか……っ)
 骸の姿は子供のままだった。もう自分の世界ですら力を失っているのか。焦りが身を焼くが、そんな不安定な状態で勝てるほど骸は甘くない。
「考え事はよくないですよ」
 ぽそりと呟かれた言葉の意味を悟ると同時に、大地がひび割れる。
「――っ!」
 直感のままに後ろへ倒れ込んで身体をずらすと、足のあった場所から長く鋭い闇色の棘が天を突いた。その行き先を見届ける間もなく受け身を取りつつ後転の要領で体勢を整えるうちに、骸はジョットの目前まで迫っていた。
「く……!」
 咄嗟に掌を突き出し、意識を高めて焔を噴出する。
「ちっ……!」
 骸の小さく軽い身体は簡単に押し返され、たたらを踏んだ。だがその隙を埋めるべく即座に左右から蔦が伸び、ジョットの四肢を絡めようとそれぞれに意思があるかのように蠢く。
(さすが……っ!)
 ひとつ焼き払ううちに別のひとつが生まれ、ふたつ焼き払ううちによっつが生まれ、そのどれもがジョットの死角をつく位置から的確に襲い来る。それらにてこずっている間に、骸は自身の狭い間合いにジョットを入れるべく再び詰めてくるのだ。それも疾風のごとく素早く、迷いなく。戦い方というものをよく知る者の動きだった。あまりにも慣れ過ぎている。
(お前はすごいよ、骸。でもな――)
 大きな蔦を焼き切る間に迫っていたはずの骸の姿が消える。その瞬間だった。
「はぁっ!!」
 直感よりも早く、ジョットは掌からたぎる焔を背後へ噴き出した。
「……ッ!!」
 熱をもろに受けた骸は声なき悲鳴を上げて吹き飛び、大地を転がった。
 身体が小さい分、骸は死角を狙いやすい。しかし逆に言うなら、骸は死角のみを狙って攻撃してくるのだ。精神的に揺らいでいる今、それを予測するのは難しくない。
「っ、ぁあっ……、っ!!」
 焔に閉じ込められた骸は全身を浄化の熱に覆われ、苦し気にのたうった。右目からは黒い靄のようなものが溢れ、焔はそれに導かれるように激しく燃え盛る。悲鳴とも羽音ともとれる音は、苦痛にまみれていた。堪え難かった。
「骸――!」
 思わず手を伸ばしかけて、なんとか逆の手で押し止める。これくらいで躊躇ってなどいられない。ぷつりと血が玉を作るほどに唇を噛み締めて、ジョットは駆けた。躊躇うな、躊躇うなと、呪文のように唱えながら。
「熱……ぃ……!」
 ぶん、と短剣が振られ、焔は霧に喰われるように消えていく。右目を押さえて呻く骸の周りにも霧が立ち込め、小さな身体を隠していった。体勢を立て直す気なのだろう。
(隠れられたらまずい!)
 時間をかければかけるほど骸を失ってしまうのだ。ジョットは焔の推進力で加速して、霞む骸へ迫った。しかしその前に、
「ぁ……なん、で……っ!」
 骸を囲う霧が、ここには存在しないはずの風によって吹き飛ばされた。誰かが扇いだような、単純な突風。だが彼岸花は揺れていない。
 理解出来ぬ事態に焦りを見せながらも、骸は咄嗟に蔦を喚んでジョットの射線を塞ぐ。しかしその蔦に、大地を突き破って伸びた蓮の花が絡み付いた。焦りは頂点に達し、骸の細い肩はカタカタと小刻みに震えていた。
「気付くんだ、骸。怒りに囚われぬお前の意思に!」
 ジョットの声に引き寄せられるように、それは次々と現れた。四方から雁字搦めにされた蔦は完全に動きを封じられ、その隙にジョットは骸の小さな懐へ身を屈めつつ飛び込み、全体重と焔を込めた拳を打ち上げた。
 がぃん、と金属の重たい衝撃が互いの腕を伝わる。ジョットの拳はぎりぎりで骸の短剣に止められていた。しかし子供の腕力ではその衝撃に耐え切れず、骸の腹に短剣の柄が食い込んだ。
「ぐ、あ゛ァ……っ!! な、なん、で……なんで――っ」
 骸はたたらを踏んで後ずさり、そして気付いた。
 呻く骸の視界に、物音ひとつ立てずに佇む小さな人影が映る。青みがかった黒髪をさらさらと揺らし、右半身を漆黒に染めた、彼は。
「お前……ッ! 僕のくせに僕に逆らうのか!」
 全く同じ顔をして同じ苦しみを分かつはずの子供に、骸は激昂をあらわにした。
「裏切り者! お前など必要ない!!」
 怒りのままに蔦が飛び交い、尖った先端が子供――もうひとりの骸を襲う。
「させない!」
 その間に飛び込むように接近したジョットがそれに触れると、纏っていた黒い炎がたちまり凍り付き、じゃきりと内側から生まれたような氷が蔦を完全に閉じ込めた。
 その光景をじっと見つめ、もう一人の骸はジョットの背に隠れるでもなく、淡々と、どこか悲しげに口を開いた。
「聞きなさい。僕は逆らってなどいません。ただ未来が見たいだけ。僕の未来ではなく、僕らの未来を。ただ、それだけです」
「何を言っている! ジョットを失っていいんですか!? 僕はジョットが欲しい……! 僕らはジョットが欲しいんだ……! 他に何もいらない! 過去も未来も、今だっていらない! ずっとここでジョットと一緒に過ごしたいだけなのに! それの何がいけない!? お前だってそうだろう!」
「……理解はしましょう。でも、賛成は出来ません。縛られた空など、もう空ではない」
「ならどうしろと言うんです!? ジョットを手放すのはイヤ……! 嫌だ、ヤだよ……傍にいたい……! ジョットだけでいい……たったそれだけなのに、なんで……っ!」
「辛いのは、わかりますよ。あなたは僕で、僕はあなただ。僕だって、僕だってジョットと離れたくなど……っ。でも……でもっ、いい加減に理解なさい! 僕らはもう、駄目なんです……! このままではいけないんです! やり直す勇気を持ちなさい! ただ、ジョットの手を取るだけでいい……っ。共に眠ろう、僕よ……!」
「血迷ったことを……! ジョット……ねぇジョット……! あなたも僕の傍にいたいでしょう? ずっと傍で、ずっとずっと、永遠に――」

「……無理をするな、骸」

 暗い瞳を見開いて、骸は小さく息を呑んだ。
「お前、さっきからずっと、泣いたままだ。ちゃんと気付いているか?」
「……なに、言ってるんですか。あなたまで、血迷って……!」
 ひくりと口の端を引き攣らせた骸は、理解していなかった。自身の蒼い瞳に溢れて止まらぬ透明な涙の意味も、水などでは有り得ないその切なさも。紅い瞳が闇色の肌に落とす紅い涙の彩りも。
 最初から、そして今も、骸の幼い顔は濡れ続けていた。乾くことなど決してない泉のように、行き過ぎた感情の波はもはや意思なのか衝動なのかもわからず湧き出し、絶えず零れる。掬い上げることも出来なかった。今流れたものは数秒後には彼岸花の根に吸われ、消えていく。骸の心は留まることを忘れ、一瞬という永遠を繰り返す。安らぎなど、決して訪れるはずもない。それはどんなに哀しいことか。
「もう、やめよう骸。泣かせたくなんかないんだ。未来で、共に笑おう。親子でも、親友でも、恋人でも、なんでもいいんだ。お前が笑っていてくれたら、それが俺の幸せだから、だから――」
「……は? 何です、それ。僕が欲しいのは今のあなただ。抱きしめてほしいのも、撫でてほしいのも、愛してほしいのも、ここにいるあなただけ。未来など欲しくない。そこの馬鹿はどうかしてる。だって、大好きなジョットがここにいるんですよ? ジョットはずっとこのままここにいればいいんです。ここに。ね、ここにいて。ここにいなさい。ここに。ここに! 僕の傍に! 他に何も欲しくなんかない!!」
 半ば悲鳴だった。まるで断末魔のように悲しげに響き、けれどそれは何もないこの空間では反射することもなく通り過ぎる。ずっとずっと、そうだったのかもしれない。骸の本当の言葉は、いつも心の中で消える。誰にも届くことはなく、偽りだけが骸の本質として残る。
 しかし今、ここにいる骸は。骸を止める、骸は。
(……聞こえているよ、骸。見えているよ、骸。ちゃんと、伝わっている。辛いこともわかってる。だから、だからもう……!)
「……骸……! 泣くな……もう、やめろ……! もう、泣かないで……っ、もう、いいんだ……!」
「黙りなさい!! 僕はっ……あなっ、あなたに、そんな顔をさせたいわけじゃなくて……ただ……っ。ぁ……、ただ……?」
 骸は突然表情を失ってきょとんと首を傾げた。涙を流したままに不思議そうに右目を押さえ、記憶を探るかのように左の視線を彷徨わせる。
「た、だ……? 何だった? 何……? あれ? ……わか、りません……どうして……?」
 忘却の恐怖に戦き、骸は頬に自身の爪を食い込ませた。それはがりがりと加減もなく肉を掻きむしり、紅い涙を増やしていく。
 もう、堪えられなかった。
「……くそ……くそぉっ!」
 ジョットは拳の焔をたぎらせて駆けた。
「なに……? どうして、そんな怖い顔を? やめ、やめてください……やめてっ!!」
 骸はがむしゃらに蔦を喚び、ジョットから逃れようと後ずさった。純粋な恐怖のままに目を見開いて。
「くそっ……くそっ、くそぉぉぉ!!」
 行く手を阻む蔦を焼き尽くしながら怯える骸へ迫る姿の浅ましさに、ジョットは涙した。骸の恐怖を理解し、自覚しながらも、それでも決して止まるわけにはいかないのだから、尚更に。護ろうとしていた者をこんなにも恐怖に染めさせて、ジョットの胸の軋みはもう痛みと呼べる範疇を超えていた。命がもぎ取られるような感覚に思わず上げそうになる悲鳴を意味のない罵倒で押し込めて、ジョットはひた走る。
「や……っ!」
 骸は狂乱に近いそぶりで取り乱し、虚な瞳でジョットを見つめた。
「ひ、どい……ひどい! あなたも裏切るのですか……? 父も母も、いつも裏切るばかりだ……! そう……いつも……いつもいつもいつも! あなたも、そうなんですか……父さん……っ!」
「……!!」
 ジョットの身体が強張る。父さん、と縋るように呼ぶ骸は、大切な日々を過ごした愛し子と容易に重なり、ジョットの焔を揺らがせた。
(あ――)
 骸の右手に三叉の剣が強く握られるのが見えた。そのごく自然な動きを目で追ったところで、もう遅い。無邪気な子供の笑顔で、骸はそれはそれは嬉しそうにその得物を突き出した。

「つかまえたぁ……!」

 鋭い尖端が真っ直ぐに琥珀の瞳に伸びる。
(殺られる――!)
 目を閉じる隙もなかった。ただ骸の笑みだけを見つめる長い長い一瞬の中で、それは起きた。

「迷わないで」

 凛、と澄んだ音色。途端に短剣は霧に溶けるように実体をなくし、骸の驚愕の表情がはっきりと見えた。そして骸にしがみつくように、正面から抱きしめるように絡み付く、もう一人の骸。その背中に浮かぶ、決意も。

 ……迷わないで。

「うあぁぁぁぁぁあああああ!!」
 獣同然の咆哮を上げて、ジョットは生命を燃やす焔を静かなる氷に変え、二人にして一人の子供に叩き付けた。
 ――キン、と。あまりにも綺麗な音だった。
「あ……っ?」
 惚けたような顔をして、骸は同じ顔のもう独りごと自身の左胸を貫いた氷柱を見つめた。
「あっ、あぁっ、ぁっ……ぁっ……ヤ……!」
 恐くて、寂しくて。骸はあてもなく手を中空に揺らす。血を流すことのない傷口よりも、心に穿たれた穴が痛む。
「ジョッ、ト……っ! ヤ、だ……怖、い……」
「……大丈夫」
 その手に指を絡ませて、右胸を貫かれたもう一人の骸はそっと囁いた。
「ジョットは、裏切ら、ない……。すぐに、僕も……いきます、から。ひとりでは、ない……。必ず、また……ひとつに……なれるから……。待っていて、僕」
「……ほん、とう……に……?」
 途切れ途切れに紡ぐ骸達の手に、ジョットの熱い手が重なった。
「ああ。必ず、必ず行くから……だからもう、休んでいいんだよ、骸……」
 凍てつく氷はどうしてか涼やかで、魂を覆っていた深い漆黒を緩やかに流した。心地良かった。夢の中にいるような、ぼんやりとしたまどろみがやってくる。何かが、満ちていく。
「な、んだ……」
 やっと安らぎに気付いたような気がした。曇っていた瞳に光を取り戻した骸は穏やかに微笑んだ。
「……ク、フフ…………よか、……たぁ…………」
 満足げな言葉を最後に、骸は音もなく解けていく。ジョットの手の温もりを確かに受け止めて、その小さな身体は、消えた。
 あとにはもう、何も残らなかった。
「……骸」
 もはや最後の一人となった骸もまた、同じように微笑んでいた。右胸を刺し貫いていた氷柱はパンッと細かく砕け、その欠片は星のない空に広がり、明確な光もない薄闇の中できらきらと輝いた。風が吹き、枯れ落ちた彼岸花が揺れる。薄闇は眠りへと誘う濃紺色の空に変わり、虫の音が聞こえてきそうなしんとした夜が来る。骸の世界が静かに呼吸した。
 けれど息を吹き返した世界とは裏腹に、骸の身体はふとした拍子に傾いだ。
「骸っ!」
 ジョットは咄嗟に伸ばした両腕にその小さな身体を抱き寄せ、共に彼岸花の中に落ちた。生まれたばかりの香りが広がり、まるで死者に添える花のようにツンと鼻孔をくすぐる。ぽたりと涙が落ち、大地を潤した。
「あなた、まで……泣いて、どう、するんですか……」
 呆れたような言い草は相変わらずなのに、ジョットには歪む視界を戻す術がわからなかった。
「何も、してやれなかった……! お前にも、あいつにも、セエレにも……みんな……っ」
「……馬鹿、ですねぇ。これが僕らの、望み……なん、ですから……。それに、ね。不思議と、痛くないんですよ……。右目も、身体も、魂も。ひどく安らかで……眠い……」
「……寒く、ないか……?」
「ク、フフ……少し……寒い、ですかね……」
 甘えるように擦り寄る骸の額に優しく唇を寄せて、ジョットは何度も骸の頬を撫でた。
「あったかい……あぁ、でも、やっぱり……少し、寂し、くて……っ」
 堪らなくなって、骸はジョットの首に腕を回し、弱々しく抱き寄せた。骸の重みも体温も、もう感じられなかった。
「……また、会えるさ……! 形は、変わっても……変わらないものがっ、ある、から……! だから、約束、しよう。待ち合わせの、約束を。俺、絶対に遅れないから。必ず迎えに行く。必ず。だから……だから待っててくれ。出発は、ずれる、けど……っ、行き着く場所は、同じだって信じてるから……! だからほら、指切り、しよう?」
 ジョットの瞳に希望を見出だし、骸は穏やかに微笑んだ。少しイタズラっぽい、懐かしい笑みだった。
「指切りの、歌……覚えましたか……?」
「ははっ、俺、頭良くない、から……っ、もう、忘れちゃった!」
 からりと無理矢理に笑ってみせるジョットに、骸はしょうがないですね、と小さく溜め息をついた。
「だと、思いましたよ……。じゃあ、覚えて。ほら、こう……ですよ……」
 眠たげにゆっくりと瞬きながら、骸の小指が差し出された。小さな、細い指。それにジョットはグローブを外した自身の小指をきゅっと絡ませた。離れぬよう、強く。
 骸は幸せそうに笑んで、震える唇を開いた。


 ゆーびきーりげーん……まん……

 うーそつーい……たー、ら……

 はーり……せ……ん、ぼん……

 のー……ま……、す…………


「……ゆーび、きった……」
 ジョットの空虚な声が、紡がれることのなかった最後の一文を呟く。
 そこには若い彼岸花がしゃんと天を向いて揺れていた。真紅の花弁は瑞々しく、甘い香りもある。草の匂いのする風もある。雲の動く音がかすかに遠く響き、夜を照らす月はそれを無音で見守っていた。醜くも美しく、そして愛おしい現実。
 ことりと、小さな手が落ちた。冷たい、手。黒い紋様は跡形もなく、ただ眠っているよう。骸は静寂の中にいた。
「骸……」
 低血圧らしい骸は、朝はいつも少し不機嫌で。ノックもしないジョットに毎日毎日飽きもせず食ってかかって。それが日常だった。それが挨拶みたいな、そんな柔らかな関係だった。
 けれどもう、起きない。
「よく、頑張ったなぁ……。疲れた、だろ……っ、ああもう、ごめん……ちょっと、やっぱり……寂し、くて……っ」
 笑顔で再会するために、笑顔で送り出してやりたかった。けれど強引に口の端を吊り上げたジョットの笑みは奇妙に歪み、どうしようもなく濡れていた。安らかに眠る骸の、外気を遮る黒い上着に包まれた薄い胸に顔を押し付けて表情を隠す。これならきっと、骸には見えないだろうから。
「……っ、次に、会う時はっ……笑う、から……! 今だけ、だから……ちょっとだけ、許してくれ……」
 返事は、もちろんなかった。彼岸花の擦れ合う音だけがすべてを赦し、ジョットは肩を震わせた。声を殺し、とめどなく押し寄せてくる感情に任せて、骸を抱きしめる。小さな身体。小さな子供。背負う咎はあまりにも大き過ぎた。

「罪も、業も、幸福も……半分こにしような。いつまでだって、一緒だから……」

 だから、それまで。

「おやすみ、骸」



























 風が、泣いた気がした。










































 世界が喪に服したような、静かな時間が流れていた。
 ざり、と土と石の擦れる音に、沈黙していた男たち――守護者たちが一斉に顔を上げる。
「……ボス……っ」
 思わず、といった様子で嵐は彼を呼んだ。

「違う」

 彼は、否定した。赤く目元を滲ませながらも、前を見据えるジョット。涙は既になく、透明な糸がぴんと張ったような凛々しさを漂わせ、立っていた。
「俺は……いや、私のことは初代と呼べ。それが未来へ繋がる呼び名になる」
 静粛な風が、まるでジョットを取り巻くように馨っていた。身のうちからじりじりと沸き起こる震えを抑えているのは嵐だけではない。ジョットからは支配者の威厳など感じられない。ただ導く者として、その視線の先に揺るぎない道が長く永く続いていることを示しているような、そんな感覚。何かを乗り越えた者だけが持ち得る静かな焔が、内に燃えているようだった。
「今日を境に、すべては変わる。永い旅路になるだろう。皆の力を貸してほしい」
 ジョットの透き通る声に、嵐は全身をぞくりと震わせた。それは忠誠であり、忠誠でない。大きな意思のもと、時に影となり時に木蔭を作り時に盾となり時に矛となり、道を切り開こう。雨は時雨の名を永久に捨て、雨の守護者として生涯初代ボンゴレを護る決意を胸に刻んだ。刀を捧げるべき人は、ここにいた。晴は拳に熱く誓った。決して未来を曇らせぬよう照らし続けることを。世界を照らす金色の光よりもなお、眩しくあろう。雷はちっぽけな子供の自分を捨て、この偉大な人の隣を常に走ることを胸のうちに宣言した。護られるのはもう終わりだった。心に宿る勇気は、彼のために。雲は、いなかった。揺るがぬ信頼だけを初代の傍に置き、孤高の道を歩み続けるのだろう。秘かな誓いを知る者は、いない。

「さあ。共に、未来へ」
   
 ここから、始まる。
 遥か遠い歴史のすべては、ここから。
 もう一度、出会うために。小さな約束のために。
 いつか来る、待ち合わせの日まで。
 一心に、全力で駆け抜けよう。
 待ち合わせに、遅れないように。

 なぁ、骸?


「今ここに、ボンゴレを始める!」













 それは静かに始まった。
 きっかけは、たったひとつの小さな出会い。大きな想い。
 噴き上がる金色の焔の先に、再会を夢見て。
 
 後に名を馳せるジョットは、強く強く、一歩を踏み出した。





























ここで初代編は終わりです。
24話は現代編にして最終話になります。
……いかがだったでしょうか。
結果的に死ネタに近いものになってしまって申し訳ありません。ですが、骸さんの幸せを最後まで書き切りたく思います。
もう少しだけお付き合いくだされば幸いです。


2009.1.1




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