022.雲と霧
くん、と鼻を利かせて、血の臭いを辿りながら光のない路地裏を歩く。どこぞの犬みたいだと自嘲しながらも黒ずくめの青年は迷いなく進み、一軒の娼館の前で足を止めた。
それはぼんやりとした桃色のランプが無駄にいかがわしさを醸し出す、なんとも安っぽい館だった。豪奢に見せかけるためか切り出した石だか岩だかを積み上げた外壁は、地震か何かが来れば一発で脆く崩れさる運命だろう。そうなった時、中で人に言えないような行為に及んでいる男女だか男男だかどうでもいい人間達は、どれだけみっともない死に様を晒すのだろうか。
(本当、どうでもいいけどね)
幸か不幸か青年はそういった施設に縁がないので、それが普通なのかもわからないし興味も湧かない。しかし、ここは少なくとも――
「……子供の来るところじゃないだろうに」
呆れたように呟いて、かつかつと靴音を響かせながら品のない門をくぐり中へと入った。
全体的に薄桃から薄紫の間を行き来するような色の内装は外観と同様にちゃちで、いかにもな裸婦の彫刻や絵画(しかも出来の悪いレプリカ)が整然と立ち並んでいた。しかしそんな物は青年の目に一秒すら留まることはない。青年の目を細めさせたのは、その彫刻や壁にべっとりとこびりついた赤い液体とてらてらした半固体の群れだった。
「……まったく」
小さく溜息をついて、床につけられた何かを引きずったような赤い痕を辿る。
濡れた廊下を進み、ごろごろと太った人体が放置された階段を登り、そろそろ赤色も掠れている廊下を進んだ先。こんな下卑た場所にも格の違いがあるのか、一際悪趣味な装飾の大きな扉があった。何か宗教的な彫刻のようだが、無宗教に近い彼にはその意味はわからない。扉の下の隙間を見れば、部屋の中へと血痕が続いていた。
「よりにもよって高い部屋かい。いいご身分だね」
ふざけた軽口を無表情に呟いて、袖に隠したトンファーを腕の一振りで構える。
そして何の躊躇もなく毒々しい彫刻目掛けて振り下ろした。
がらがらと石の扉が崩れ落ちて部屋の内部があらわになり、濃い血臭がむわりと鼻をついた。残念ながら、そこにあったのは青年の予想通りの色、有様だった。
「ここは未成年立入禁止だよ、ちびっこ」
青年が表情を変えないまま声を発すれば、明らかに二人分以上の大きさのベッドの上で黒い塊がもぞりと動いた。ゆっくりと顔を上げたのは、見覚えのある子供だった。死体の名を名乗る、赤に塗れた子――骸。
「だれ……? ん……雲、ですか……?」
その弱々しく覇気のカケラもない声は、青年――雲を落胆させるには十分だった。
紅と蒼の、本当はずっと美しいと感じていたはずの瞳は見る影もなく淀み、雲は思わず視線を逸らす。見たくはない。あの深い瞳の、成れの果てなど。
「……他の誰に見えるって言うの」
「そう怒らないで。仕方がないでしょう、誰も彼も同じに見えるんですよ。案山子みたいな、よくわからない物体に。ここの案山子達はいろんなところでゆらゆらと腰を振って、奇妙な声で鳴いてて、すごく気持ちが悪くて……」
骸はベッドの脇に転がっていた丸い物を持ち上げて、無感情に撫でた。
「クフフ、でもね?」
そしてそれに手にした三叉の短剣をおもむろに突き刺す。もう動かなくなっていたそれは衝撃で少し揺れて、けれどそれだけだった。
「ほら、もう鳴かない。静寂は美しいものです。フフ、静かに眠るとね、たまに夢でジョットに会えるんですよ」
よく見れば、ベッドの周りにはごろごろと骸の言う案山子達が転がっていた。どれも皆服をまとっておらず、折り重なるように無残な姿を曝している。そのただ中にありながら、骸はくすくすと笑っていた。
「……もう、マフィアと一般人との見分けもつかないのかい」
「変なことを言いますね。別に、見分けなんてつかずとも困りませんよ。この痛みが紛れれば、それでいいのだから」
骸は右目を押さえて呻くように言った。
「随分と堕ちたものだね」
「なんとでも、お好き、にっ……ぁっ、あぁっ、いた、い……! 気が、狂いそうで……っ」
骸が苦しげにもがく度、手にした短剣が肉塊に食い込んだ。右目を抑える手の荒々しさより、揺さぶられる肉塊より、その下に広がる不気味な黒い紋様が痛々しい。幾何学模様と唐草模様を混ぜたようなそれは、右目を中心として骸の右半身を覆い尽くし、まるで喰らっているかのごとく蝕んでいた。整った顔は左右で様相をがらりと変え、歪さを強調している。
ぽろぽろと涙を零す骸の姿に、何も感じないと言えば嘘になった。相容れることは決してないけれど、遠のくこともないと思っていた。しかし今、彼はここを離れようとしている。骸を未来へ送るのがジョットの役目ならば――
(なら、僕の役目は……)
「気を紛らわせたいのなら、僕が遊んであげる。君の父親が……迎えに来るまで」
雲は無音でトンファーを構えた。自分に出来ることはこれだけだとわかっていた。
「さあ、あの時の決着をつけよう」
ぴくりと肩を震わせて右目を押さえていた手を外した骸は、雲を視界に入れるとやんわりと微笑んだ。何かがすぅっと失せて、骸はかつての面影を少しだけ垣間見せた。
「案外、優しかったんですね……あなた……」
そうして三叉の短剣を軽く振れば、次の瞬間には剣は槍に、少年は青年へと変貌をとげていた。
「小動物は割と好きだからね」
「クフフ、それは光栄です」
視線が交わったのは、ほんの数秒だった。
「行きますよ……!」
粗末な床の軋む音と同時に、二人は互いに互いを食い合うように得物を振るう。
ギュリン、と金属が擦れ合い、物足りない照明を反射した。相手に刃が届かないと知ると二人は即座に身体を回転させ、遠心力を最大限に利用した回し蹴りを放つ。鏡に映したかのような動きは挨拶代わりか。耳元の空気だけが虚しく散り、ひゅ、と短い悲鳴をあげる。そして次の瞬間にはそれすらも見越して互いの拳が互いの顎を狙う。
「「っ!」」
しかしそれは互いに踏み込みを止めたことで、目と鼻の先でぴたりと静止した。どちらかがほんの少しでも遅れれば両者共に顔面に拳をめり込ませる事態になっていただろう。
獰猛な笑みの中にふわりと歓喜を含ませて、二人は拳越しに見つめ合う。
「相変わらずやるね」
「……あなたも」
言い終わるや否や、死角から迫るトンファーの軌道を槍の穂先で逸らし、骸はその反対側の柄の部分を床に転がっていた首のひとつに引っ掛け雲の方へと放った。
「悪趣味も相変わらずっ」
口ではそう言いつつも、それを弾くトンファーに容赦はなく、死体の鼻のあたりが砕けて吹き飛んだ。僅かながらも血が雲の視界を閉ざし、一瞬の隙が生まれる。
「それはどうも」
ぶぉっ
雲の前髪の数本が槍の一閃で切り飛ばされた。だが雲の肌に傷はない。
「おや、よく避けましたね」
「これくらい歯ごたえがなきゃ君も愉しめないでしょ」
「クフフ、正論ですね。さあ……もっと踊りましょうか!」
骸が雲へ突進する。
「立てなくなるまで踊らせてあげるよ!」
雲もまたトンファーを構えて駆けた。
幾度も幾度もトンファーと槍とは交わり、離れ、絡み合った。まるで儀式のように完全な動きは図ったかのように互いを掠め、決定的な一撃にはならない。
「どうしました、懐が甘いですよっ」
無駄なく放たれた骸の回し蹴りをトンファーで受け止めつつも、力を受け流しきるには至らず雲の身体が弾き飛ばされる。
「……ふん」
しかし石の柱にぶつかったのはトンファーだけだった。ばきん、と柱にひびが入る。そこへ更に骸の追撃が容赦なく襲いかかる。
「っ……!」
身を捻り槍の一撃をやり過ごせば、石柱のひびは更に広がり、大きな破片が転がった。それを確認して雲は対角線上の別の柱へと駆けた。
「あなたともあろう者が僕に背を向けるとはね」
骸は槍の穂先で破片のひとつを弾き上げ、雲の背中目掛けて打ち放った。
「……逃げる気はないけどね」
言うが早いか、雲は重力に真っ向から逆らって壁を駆け上がり、背後を振り返ることなく宙返りの要領で石片を避けた。
「ハッ、まるで猿か何かみたいですねっ」
そこへ骸の突きが躊躇なく打ち込まれるが、木の葉のように柔軟な動きを捉えることは出来ず、柱に深く突き立った。抜くのが困難かと思われたそれは、具現化を解くことであっさりと次の行動に移り、振り向き様に容赦のない一撃を雲へと叩き込む。
「……ねえ、知ってるかい?」
交差させたトンファーで骸の突きを受け止めて、雲は口を開いた。
「雲はね、空にあるから雲なんだ。地に近付けば霧に――君になる。空にないと、僕は僕でなくなるのさ」
「ほぉ? あなたが僕になるなんて、怖気が走りますね」
くすくす笑いながら、骸は槍に更なる力を込める。トンファーがぎちりと鳴いた。
「逆に、霧は空に近付けば近付くほど雲になる。君が僕になるんだよ。全く、気持ち悪いね」
雲は冷静にトンファーの位置を少しずつずらした。突進力ではトンファーは槍に敵わない。そして今の骸は腕力ならば互角だ。それは本来訝るべき事態だったけれど、事実そうである以上、認めるしかなかった。弱いものいじめだなどと誰が宣ったのか。
「ここで疑問なんだけど、一体どこまでが空なんだろうね。上を見上げれば、そこに見えるのは空だろう。では、今僕らを包むこの大気は空とは呼べないのかな。この汚らわしい館に満ちた空気は、それでも空のかけらではないのかな」
ぎちぎちと小刻みに揺れながら、トンファーの角度が変わっていく。
「……まさか慰めてるつもりですか?」
骸は歪み過ぎた苦笑を浮かべて、槍の穂先を捻る。
互いの武器が悲鳴を上げて、均衡が崩れた槍の先端がトンファーから外れ、雲の額を狙った。
「っ!?」
しかし槍は一定の距離から動かなかった。トンファーから飛び出した鉤爪ががっしりと穂先を捕らえ、固定している。
「まさか。そこまで優しくないよ」
言いながら、雲は全身のバネを総動員して身体ごとトンファーを捩る。
ばきん、と渇いた音を立てて槍の穂先が割れ、きらきらと金属のかけらが舞った。
「……ちっ」
トンファーの追撃を予測して、骸は大きく跳び退った。左肩のあたりをちりりとした痛みが走ったが、掠めただけに留まった。
「今だって君は空の中にあるんだ。それに気付かず空から離れようとすれば、ただの水滴になって不様に地を這うだけだよ」
「……お説教ですか」
「そんな親切そうに見える? 眼科行った方がいいんじゃない」
ふざけた言い回しをしながらも、雲の目は笑っていなかった。
「……見ていられないんだよ」
「……」
「だから僕は、君を空に帰そう」
言い切ると同時に、雲は左右のトンファーを全力で振るった。部屋の天井を支える要である、四本の巨大な石柱のうちの一本を。
「何を――」
骸が声をあげた瞬間、びきりと大きく部屋が悲鳴を上げた。それは先程骸の攻撃を受けた二本の石柱を介して二人を包囲するように広がっていき、
「少しおやすみ」
かん、といっそ軽い音をきっかけに、その空間は崩壊した。
天井として機能していた大理石が安っぽい宗教画ごと見る影もなく割れ、骸の頭上に降り注ぐ。
「っ――!!」
咄嗟に蔦を喚ぼうとして、出来なかった。ずきんと一際強く右目が叫び、限界を知らせる。目を見開いて苦痛と驚愕に表情を歪める骸に、無情にも瓦礫の山が襲い掛かった。
「……こういう騙し討ちみたいな手は、君の専売特許みたいで性に合わないんだけどね」
がらりと大きな瓦礫を退かし、雲は呟いた。視線の先には気を失った子供が自らが築いた死体の束に埋もれるように力なく横たわる姿があった。
目を背けたくなるような何かに半身を冒された、小さな身体。
同情なんて似合わないものは当然ながら湧かなかったけれど、雲はことさら丁寧に骸の身体を瓦礫の中から引き出した。驚くほどに軽い身体だった。
「こんなのが決着だなんて、認めないから」
自身の上着で小さな身体を包み、骸を抱き上げる。
「だから、早く還っておいでよね」
その時こそ、決着を。
雲は眠る子を起こさぬよう、そっと舘を後にした。
君のお気に入りの場所で、父さんを待とう。
それまでは、傍にいてあげるから。
ちょっと時系列がわかりにくいので補足を。
今回の話は正確には21話よりほんの少し前の話となります。
このまま眠りにつき、骸さんが雲に連れられた先で見る夢が21話の最後の展開になります。
単純に時間通りに進めるならこの話を21話にするべきなのかもしれませんが、ストーリー展開的にこちらを後にさせていただきました。
そこらへんのわかりにくさも含め、オフ本の方ではもう少しわかりやすく出来るといいのですが……。
2008.11.14
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