021.
ジョット。
ジョット。
起きて。
意識をこちらへ傾けて。
……。
そう、そのまま。
教えて下さい。
あなたの、願いを……。
あなたが、一番欲する言葉を。
……………。
ひどいこと、言わせますね。
本当に、矛盾しているんだから。
あなたにこんなことを言うのは、最初で最後、ですからね?
“大嫌い”
(む……くろ……?)
「ぅ……」
急激に感じた光に眼が眩む。視界が真っ白で、身体の感覚も曖昧で、状況を理解しようにも頭にはうっすらと靄がかかったようでうまくいかない。
「ボス!」
「……?」
ぼやけた意識に反響する声は、よく知る嵐の声だった。焦躁とも歓喜ともとれる、しかしどこか悲痛な声音はどうしてだろう。
「嵐か……?」
やたらと重い頭を働かせてなんとか口と首とを動かせば、涙をいっぱいに溜めた銀髪の青年が視界に入って来た。そしてそれが間近に迫る。
「わっ?」
「ボス! ボス……!!」
首にがっしりと抱き着いて喉を震わせ、嵐は噛み締めるようにジョットを呼び続けた。普段右腕らしくあろうと本来の激情家な部分を抑えて冷静な対応を心がけている嵐にしては、至極珍しい。子供のように泣きじゃくる彼の髪に手を差し込んで撫でてやりながら、ジョットは辺りに視線を巡らせた。白い壁に白い天井、つんと鼻をつく消毒薬の臭いは職業柄馴染み深い。
「………病院?」
「ああ、そうだぜ」
応える声に固くなった首を緩慢に動かせば、少し離れたところに和装の親友――雨が立っていた。そしてその奥にはいつもの眩しいくらいの笑顔を潜ませた晴と、今にも泣きそうな雷、更には群れることを極端に嫌うはずの雲までが仏頂面で立っている。本当に珍しい。
「雨……、晴、雷、それに雲まで……」
(あれ……?)
ひとり、足りない。
「…………骸、は?」
ジョットの、親が子の行方を尋ねるような声に、皆は視線をそらした。言葉はなくとも、それは何よりの答えになる。
(何……?)
ぼやけた思考が少しずつ鮮やかさを取り戻していく。嵐の頭を撫でていた手を止めて、じくじくとした痛みを訴える自らの腹に滑らせた。察した嵐はベッドに乗せていた身体を引いて、つらそうに視線を床に落とした。
ジョットの手が病人服ごしに包帯の感触を辿る。
「ぁぐっ!!」
その場所に触れた途端、自らが生んだ熱が蘇るように痛み、ジョットは引き攣った悲鳴をあげた。
「ぁ――あぁっ!」
脳が焼かれる錯覚と共に、走馬灯を気取った記憶が駆け抜けていった。
――久しぶり、骸。
僕はまだ、あなたの家族ですか……?
やめてください!
俺は、お前になら殺されてもいい。
お前の居場所はここにある!
変、ですね。
僕じゃ、駄目なの?
傷の痛み、失う痛み――僕の痛みが!
お前の代わりになんて、誰もなれない!!
……僕は、あなたを誇りに思います。
馬鹿な僕はいらない。
「ああぁぁぁぁああっ!!」
そうだ。そうだった。
ここは病院、ならば、あの後、あの後どうなった?
「む、骸はっ……ミーロは、どうし――ぁ……ぅっ!」
感情のままに跳び起きた振動で腹の傷が激痛を帯びる。本当は、その答えは感じ取れてしまった。でも、信じたくなんてない。だから唇を噛んで苦汁の面持ちを浮かべる嵐の肩を掴んで、違う答えを待った。意識を奪おうと暴れる痛みを堪えて、違う事実を望んだ。
けれど、拳を握りしめた嵐が震える声で吐き出したのは、残酷な言葉だった。
「ミー、ロは……死に、ました! 骸の手に、かかって……!」
それは予想通りの言葉で、予想通り過ぎて呆気ないくらいで、どうしたらいいのかわからない。どう反応すればいいのか、感情が追いついてくれない。不自然なほど静かに現実を受け止めて、心の深いところに沈み込んで、跳ね返ってくるものはなかった。黒くて気持ちの悪いものが溜まっていく感触に、疲れた心は悲鳴をあげることすら忘れてしまった。
「……そう、か。そう、だよな……骸、が……ミーロを――」
――僕の愛の深さをね。
「う……っ」
脳裏に冷たい声が反響した。
「……ぁっ、げほっ……がっぁ……!」
急激に吐き気が込み上げて、苦い胃液の味が口内を巡る。吐き気が吐き気を連れて来て、胃がぐるぐると混迷していた。
「ボス、水を」
嵐が即座にベッドサイドの机に置いてあった水差しからコップに水を注いで差し出した。ジョットは噎せて上手く動かない左手で受け取ったものの、受け取った直後に水がみるみる泡立っていく。不思議に思う間もなくそれは激しくなり、蒸気を上げ出した頃にようやく気付いた。
「っ!!」
咄嗟に手を離せば、ベッドのシーツに熱湯がぶちまけられて薄い染みを広げた。
「ごほっぅ、けほっ。ごめ、ん……」
いつの間にかジョットの左手には橙色の炎が燈され、身体を支えるためにベッドについていた右手を上げれば、その下のシーツはぶすぶすと煙を上げて茶色く焦げていた。死ぬ気の炎の暴走だなんて、シャレにならない。嵐は悲しそうに眉を歪めながらも、すぐに平静を装った。
「……いえ。少し眠って下さい。しばらくは俺達だけでなんとかしますから、あなたは身体を休めることだけに専念して下さい」
嵐が背中を支えてジョットを寝かせようとしたが、ジョットはその手をやんわりと払った。
「いや、寝てなんかいられない。早くしないと、このままじゃ骸は、また……」
軋む身体に鞭打って、ジョットは痛みも無視してベッドをおりようと動く。しかしサッと胸のあたりに嵐の腕が伸びて来て、押しとどめた。
「そんな身体で何ができると言うんです。こんな状態のあなたが動けば、我々は逆に動けなくなる。今は大人しくしてください!」
「何言ってるんだよっ。大人しくなんてしてられるか! 骸が……っ、骸のもとへ行かなくちゃならないんだ!」
その手すら押しのけて、ジョットは無理にでもベッドをおりようと蠢いた。1秒もかからないはずの動きが、今は重力が何倍もかかったように重くて思うようにはいかなかった。
「ボス……!」
傷のこともあって、嵐はこれ以上力をこめることをためらっていた。仕方なくジョットの足にすがりつくように身体を被せ、体重をかけて押し込める。それでもジョットはもがき続けた。骸のもとへ、骸のもとへと、気持ちだけが急いているのは明らかで、額や手から時折炎が吹き出しては嵐の身体に火傷を作った。それでも嵐は離さない。綺麗な顔が醜く引き攣れても、決して。
「離せ嵐っ! 離っ――」
バキィッ!
一瞬、意識が真っ白になった。痛みよりもまず脳を遠慮無しに揺らす衝撃がひどく気持ち悪い。明滅を繰り返す視界はシーツと床ばかりに埋め尽くされて、状況が理解出来なくて、ジョットは茫然とした。
「目、覚めた?」
ぶっきらぼうな低い声。けれど、その瞳の奥には不思議と温かな光が宿っている、彼――。
「く、雲……」
普段から問答無用でトンファーで殴りかかる彼だったが、ジョットの左頬の衝撃を生み出したのは雲自身の拳だった。手加減はしてくれなかったようだが、その分深いところに響いた一撃だった。
「まだ本気の君と手合わせしたことがないんだ、無茶をされて死なれては困る。もう少し大人しくしてるんだね」
一方的にそれだけ言うと、雲はさっさと背を向けて立ち去ろうとした。
「ま、待て!」
何か予感めいたものを感じて、ジョットは慌てて止めた。雲はぴたりと素直に足を止めて、しかし振り向きはしなかった。
「……あの子はきっと、君の言うことにしか耳を貸さないよ。でも逆に言うなら、君の言葉ならまだ届くはずだ。だから僕はあの馬鹿を適当に殴って黙らせて、君のところに送るだけ。せいぜい届け物がパイナップルジュースになる前に、身体を治しておくことだね」
じゃあね、と手を振って、雲はさっさと病室を後にした。その広い背に、ためらいはなかった。
「あいつに従うのは癪ですが、今はそれしかありません。どうか今少しお休み下さい」
嵐は再度ジョットの背に手を添え、今度こそベッドに寝かせた。その手は赤く焼けただれて、あまりに痛々しい。
「……すまない」
消え入りそうな声を残して、ジョットは気を失うように眠りに落ちた。
こつ……
こつ……
「……?」
よく知った気配に、ジョットの深く落ちていた意識が浮上する。どれくらい寝ていたのか、重い瞼を無理矢理持ち上げればカーテンすら閉め切った病室は真っ暗で、狂った時間感覚は当然あてにならない。耳を澄ませば涼やかな虫の音や風の音から夜らしい気配が感じられたけれど、それがあれからどれくらい経過した夜なのか確信は持てなかった。
こつ……
こつ……
こつ
病室の前で、足音が止まった。
こん、こん…
指先で突いたみたいな微かなノックのあと、その人物は音も立てずに病室へ入って来た。闇に紛れる漆黒の衣はジョットにとっては見慣れたもので、特定の人物の特徴として一役買っているものだった。
「雨、か……?」
「おう。悪い、急ぎの用ってヤツがあってな」
小声で囁くように言いながら、雨はベッドのすぐそばまで歩み寄った。徐々に暗闇に慣れて薄闇にぼんやりと雨の顔が浮かぶ。その表情は、どこか痛みを押し隠しているように見えた。
しかしジョットが口を開く前に、雨はそっと呟いた。
「これから俺がすることは、守護者として失格だと思う。だから、ジョットの親友、時雨として……ジョット。お前に、伝えたいことがあるんだ」
真摯な声音に、ジョットはただ頷いた。
「急がせて悪いな。傷、痛むか?」
がらがらと馬車は常に揺れ、ジョットの傷に強弱をつけて響いていた。車輪が小石か何かに乗り上げる度に呻き声が漏れそうになるのを我慢して、同時に歪みそうになる表情を必死で固めてなんとかここまで来たが、やはり少々きつい。
「……少しだけ。でも、大丈夫だから。それより時雨、どこへ向かっているのかそろそろ教えてほしい」
病室から連れ出されて、外に用意してあった馬車に乗り込んだのは少し前のこと。病室の前にも病院の周囲にも見張りがいたが、雨の部下なので口出しをしてくることはなかった。あれから馬車は止まることなく走り続け、今もまだ止まる気配はない。ジョットは雨を――時雨を信頼しているけれど、それでも傷の痛みが騒いで不安を煽った。
「ああ、そうだな。今向かっているのは、俺や部隊の連中が使ってたアジトさ。正確には、アジトだったところ」
「だった?」
「ああ。……少し、話そうか」
時雨は軽く深呼吸をして、話し始めた。
「ミーロが死んだ後、俺と嵐は骸に挑んだんだ。二人がかりなんて侍として誇れたものじゃないのはわかっていたが、それでも俺達はあいつに勝てなかった。ミーロの顔をしたあいつに、傷を付けられなかった……。あの時ばかりは死の気配を間近に感じたよ。でも今、俺達は生きてる。雷の坊主に助けられてな」
「雷に……?」
意外な名前に、ジョットは驚きの声を上げた。雷の内に秘めた闘志はジョットも気付いていたけれど、それでも想像はしにくい。泣いたり叫んだり、忙しなく変わる表情ばかりが浮かんでしまうのは仕方のないことだろう。
「俺も驚いたよ、正直。あいつ、やる時はやるんだな。少し見直したさ。ただ、さ……」
「ただ?」
言いにくそうに口ごもる時雨に、ジョットはちくりとした予感を感じた。
「雷の電撃が骸を貫いたその時、だった。たぶん、骸の幻覚が解けたんだと思う」
「幻覚が?」
骸の幻覚が解けることはそう多くはないが、ないこともなかった。幻覚は現実味を帯びるほどに集中力と精神力が求められ、骸にかかる負担は大きくなる。骸が気絶すればもちろん幻覚は途切れるし、骸が眠っている間は大それた幻覚は使えないのだという。だから電撃で幻覚が保てなくなるのも、特筆すべきことではないのではないか。
ジョットはそう思い、少し首を傾げた。時雨はそれに気付きつつも続ける。
「……いつからああなのか俺にはわからないが、あれがきっと――あいつの素顔なんだと思う」
「素顔……?」
「別人だとか、そういうんじゃないんだ。顔立ちとか、いつもの綺麗なもんさ。でも、でもさ、あいつの顔の右半分……いや、右手もだったから右半身全部なのかもしれない」
その時の光景を思い出しているのか、時雨は眉を寄せ、何かを堪えるように小さく息を吐いた。
「なに……?」
ただならぬ様子にジョットの直感が疼き、焦りが募る。それでも聞かなければならない。他ならぬ、骸のことだから。
「なんだよ、時雨……?」
「……右目に、喰われてたんだ」
クワレテタンダ。
「え……」
音として判別できても、意味がわからなかった。頭がどうかしてしまったのか、全然、全く、理解不能で。
「汚染、浸蝕、腐敗、呪い……。何て言い表せばいいのか、俺にもわからない。でも、あれは……普通の人間の身体じゃ、なかった」
「ど、どういう意味だ! そんなの――」
「察してくれ。俺は見ただけだ。あいつの右半身が漆黒に染まって、変な紋様が走っていたのを。右眼が、紅とも違う、不気味な闇色に光ってるのを……。それがどういう意味を持つのかは知らない。でも、骸は隠そうとしてた。俺から――いや、きっとお前から。屋敷に火を放ってまで、あいつは……っ」
「そんな……!」
「何がどうなってそうなったのか、それとも最初からそうだったのか。俺にわかるはずもない。でもな、これだけは言える。俺にとって、骸はもう敵なんだ」
「時雨――」
「ミーロをボンゴレに連れて来たのは、俺だ。そしてミーロに助けられたのも、俺。だから俺は、あいつの仇を討たなきゃならない。それが誰であっても、俺は討つ。それだけの覚悟が、俺にはある」
紛れも無い真実の意志を宿して、時雨の眼は戸惑うジョットを射抜いた。強く、透明な瞳だった。正義だとか、そんな甘ったれた思想に頼らない、孤高の魂だった。
「でもな、俺の覚悟は俺のものだ。お前に押し付ける気はない。俺の知らない骸を、お前は知ってるだろう。骸がお前にしか見せなかった顔、教えなかった事実、言わなかった言葉があるのは、わかってる。お前が一番骸のことを理解しているべきだとも、思ってる。だから俺は、お前がどんな決断を下そうとも止めない。止めないと決めた。お前はお前が思うように進めばいい。だが、そのための材料は、隠すべきじゃない」
がたん、と。ふいに馬車が止まった。
「降りるぞ。お前に見せたいものが――いや、お前が見なければならないものがあるんだ」
時雨に肩を支えられながら入ったのは、何の変哲もない地下酒場だった。俗世の中で少しの闇を孕んだ場所。しかし夜だと言うのに階段のガス灯には火が入っておらず、通りから2・3歩足を踏み入れただけで足元は暗闇に包まれてしまう。人の気配がまるでなかった。
「……っ」
しかし一段一段降りていくうちに、覚えのある臭いが徐々に濃くなっていくことに気が付いた。
(血の臭い……!)
この世界に身を置けば必然的に近しくなってしまう臭いは、嫌でも先に待つ光景を窺わせる。嫌悪に息が詰まるのを堪え、全てを受け入れる覚悟で進み続ける。かつんこつん、と靴音を響かせるうちに、闇が濃過ぎて色さえ判別できない扉――らしきものに辿り着いた。もはやすぐ傍にあるはずの時雨の表情すら判別出来ない。
「屋敷が燃えて、ファミリーは散り散りになった。お前が目覚めぬうちはひとつところに集うのは危険だとの判断でな。その判断は間違っていなかったと思う。これはきっと最小限の被害なんだと、運が悪かったんだと、そう簡単に諦めることはさすがに出来なかったけどな」
まあ、入れよ。
そう悲哀を隠せない声で無理に軽く言って、時雨はその扉を開いた。
「ぅ……っ!」
途端に広がる濃厚な血臭に生理的嫌悪が呼び覚まされ、唐突な吐き気が頭痛を引き起こした。まるで血の海に顔を浸けているかのような異常な芳香は、ジョットの予想を遥かに超えていた。
「つらいだろうが、我慢してくれな」
時雨はもう慣れてしまったのだろうか。ジョットに少し待っているように言うと、光の一切届かない中を迷いなく歩き、しゅっ、と何かをこすり合わせる音を立てた。直後にぼんやりと頼りない灯が生まれ、それが1つ、2つ、3つ、と増えていく。灯が増えるに従って、少しずつ少しずつ、焦らすようにその惨劇があらわになった。
目を、反らせなかった。反らすことを、ジョット自身が許さなかった。
テーブルには様々なビンと大小入り交じったグラスが転がり、酒の代わりに赤黒い液体が溜まっていた。つまみにでもするはずだったのか、元は白かっただろうチーズは床に散らばり、いくつもの靴跡によって無残に蹂躙されていた。その僅かな窪みにすら赤い液体が溜まり、蝋燭の灯をてらてらと反射する。そのまま床に視線を巡らせれば、床板1枚1枚が元々そういう色に塗られていたかのように違和感なく赤に染め上げられ、染み込み切らなかった分は何かに抉られたような醜い傷を基点に小さな池を作っていた。その傷は壁にも天井にもあった。刃物によるだろう筋状の傷、銃弾の小さく深い傷、ガラスの破片で引っ掻いたような細かな傷、何か鈍器のような物で壊された大きな傷――闘いの、痕跡。
「ここにいたやつらは、皆死んだ。俺の部下だけじゃない。一般客も、マスターも、襲って来たやつらも、一人を除いて皆死んだんだ」
一人。たった一人の生存者。
「……骸が、これを……」
ジョットは掠れた声をやっとのことで搾り出した。信じたくなんてなかった。骸ならやりかねないと心のどこかでわかっていても。それでもジョットは、否定だけはしなかった。全てを受け入れて、あるがままの真実を感じて、そこにある骸の本当の姿を捉えて、覚悟を決めなければならない。それだけが、ここで散った命に対する僅かな贖罪だとわかっていた。
「見てほしいものは、これじゃないんだ。こっちへ――」
時雨は燭台を持ち、迷いのない足取りで赤い床を軋ませながら奥へ誘った。おそらくは元は緑色をしていたのだろう黒い扉を開け、その先へと。
「この酒場を襲ったのは、アマンドファミリーだったそうだ」
「ブルーノが……?」
アマンドファミリー。ボンゴレとは同盟関係にあり、そのボスであるブルーノは穏健派だった。ジョットを孫のように可愛がり、時に叱り、常に先人として尊敬に値する人物だった。ジョットはその熱烈なスキンシップを苦手としていたけれど、その感覚は照れ臭さに近かった。ひとりの人間として、好いていた。それがこんな凶行に及ぶ理由など、考えられるとすればひとつしかない。そしてあれほどの人物を操ることが出来るものなど、ジョットはひとりしか知らなかった。
「……こっちの部屋にはさ、死体は1体だけだったんだ」
手にした燭台を低くかざせば、床や1つだけのテーブルは先と変わらぬ状態だった。変わらぬ惨状、変わらぬ光景。たったひとりから作られたとは思えない、血の跡。
「ここで死んでたのは、ブルーノ本人だった」
「ブルーノが……死んだ……?」
「正確には、骸に殺された、だ。推測の域を出ないがな」
すっ、と燭台を壁に近付ければ、その証拠と言える狂気の発現があらわになった。
「こ、れは――!」
壁という壁に書かれていたのは、ジョットの名前だった。おそらくはブルーノの血で書いたのだろう真っ赤な血文字は、疑いようもなく骸の字。数え切れないほどの『Giotto』の文字は乱れることを知らず、様々な角度で書かれながらも教科書のように整っていた。それはこの狂った場において不気味なほど正常で、だからこそ異常で。
(……骸……!)
どうして、ここまで。
ひとつひとつを辿り、ひとつひとつにどうしようもなく骸を感じて、傷が疼いた。これもまた、ひとつの真実。骸の辿った軌跡だ。目を逸らすことは出来ない。
しかし、字を追っていくうちに、壁の一角に乱れを見つけた。
「……これ、は」
“どうか僕を還して。本当は大好きな、あな――”
最後の文字は不自然に引き攣れて、まるでそこで力尽きたかのようだった。恐ろしいほどに整った文字群の中、その文だけは感情的な起伏を見せ、どこか……温かい。
「お前になら、この意味がわかるんじゃないかと思ってな」
時雨は感情を浮かべないまま、小さく息を吐き出してジョットを見つめる。
「むく……ろ……」
吸い寄せられるようにジョットはその文字に指を添わせた。
「っ!?」
その瞬間、視界が眩しいくらいの青空に塗り潰された。
「どうしました、ボンゴレ」
(……な、骸……!?)
目の前に広がる、有り得ない光景。透けるような青空の下、穏やかに問い掛けるのは紺色の長い髪に紅と蒼の瞳を持つ青年。骸に良く似た、綺麗な人。そして――
「なあ、骸」
(……!?)
ジョットの意思とは無関係に、口が動いた。ジョットの声とは違う、まだ少年のような声だった。状況がわからず混乱するジョットを置いて、口は勝手に言葉を紡いでいく。
「前から聞こうと思ってたんだけどさ、なんで俺のこと名前で呼んでくれないの?」
なぜか骸に似た青年はジョットをボンゴレと呼んだ。いや、それ以前に、今ジョットは自分が自分である自信がなかったけれど、口から出たのは本当に聞きたいこととは少しずれた質問だった。
「ボンゴレ、ではいけませんか」
骸らしき青年は、少し困ったように曖昧な微笑を浮かべていた。その表情も、ジョットの知る温かな日の骸を思わせて胸の奥をじくじくと痛ませた。思わず手を伸ばそうとしたけれど、身体は金縛りにあったように動かず、そのくせ全く別の行動を取る。
「質問に質問で返すなよ。別に駄目ってわけじゃないけど、なんかそれだと俺が呼ばれてる感じがしなくてさ」
自分が発している他人の声は、少し拗ねているように聞こえた。
「……別に、そういうわけでは――」
「ウソ。まったく、こういう時ばっかり直感働くんだからな……」
強気を装う声はどこか寂しそうで、ジョットの視界はほんの少し下がった。さらさらと草が揺れていた。
「お前さ、俺のことなんて、本当は呼んでないんだろ」
「……」
骸似の青年は微笑を奥にしまって、少しの沈黙を保った。
「……さあ」
しかしその後に返って来た言葉は到底答えとは呼べないもので、ジョットの心なのか別の心なのか、どちらともなく軋むのを感じた。
「肯定と、取るよ。……返事なんて聞かなくても、わかってたけど」
「なら、聞かなければいいのに。自虐的ですね、あなたは」
「嘘でも否定してほしかったの! というか、なんで否定してくれないんだよ……!」
「……抗いようもないほど真実だから、かもしれません」
真摯な声は、やはり本心なのだろう。それがわかるだけに、余計につらかった。
「こういう時だけ正直なんだな。なら、いつ? いつになったら俺の名前を呼んでくれる? いつになったら俺を俺として認めてくれる?」
「……」
「答えてよ、骸。俺は誰かの代わりになんてなりたくないし、なれないよ」
(あ……)
それは、ジョットが骸に言った言葉と似ていた。骸似の青年は、何かを懐かしむように遠い眼をして、言葉を選んでいるように見えた。何を思い浮かべているのか。ジョットの直感は、もう答えを出していた。
「……もう少しだけ、時間を下さい。あなたを認めていないわけではないのです。ただ、整理したい。僕らの気持ちを。あなたをあなたとして見つめるために。今の僕が、今のあなたを正面から見つめるために。だから、あと少しだけでいい。どうか時間を下さい」
間違いなく、あの骸だった。ジョットと共に過ごした、あの――。
(骸……! 骸! 骸!!)
問いたいことも、話したいことも、してやりたいことだってたくさんあった。なりふり構わず名前を呼んで、どんな微かな声でもいい、あの子に届いてほしいと願った。それでもジョットの声は吸い込まれるように消えて、骸には届かない。
「お願いします。ボンゴレ――」
「……綱吉、な」
「……!」
「その時は、沢田綱吉だとか沢田とかじゃなくて、下の名前で呼んでよ。できたらそんな顔じゃなくて、幸せそうに笑って。そうしたら、許してやる。そうしてくれるのなら、いつまでだって待っててやるから、だから――」
誰のものかもわからぬ胸がずきんと痛んだ。でもジョットにはもう、それが何か理解出来たような気がする。ここは夢じゃない。確かな、現実だから。
(沢田綱吉。ボンゴレ。これが、お前の見た未来なんだな、骸)
「必ず、約束します」
あの日の面影を強く残す“彼”は、やんわりと微笑んだ。愛しさが胸に広がって、ジョットは今すぐにでも抱きしめてやりたい思いにかられた。けれど、身体はやはり動かない。でもきっと、それでいいのだ。ここはジョットの世界ではない。未来のジョットが――沢田綱吉が、彼を心から抱きしめてくれると、信じられる。
「俺も、約束する。必ずお前をあんな暗くて冷たいところから連れ戻してみせる。覚悟、しといてよ。そうしたらもう、二度と離してなんかやらないからな!」
す、とようやく身体が動いた。右手の小指を立てて、“彼”に差し出す。
指切りの仕種、だ。
「……楽しみに、していますよ」
答える“彼”もまた、同じように右手を差し出し、小指を絡めた。
遠い夏の日の小さな約束がジョットの脳裏に蘇る。二人だけの秘密基地で、小指を絡め合った記憶。
全てはここで重なるのだ。遠い未来で、再び――。
(僕を還して……、か。お前の最後の願いは、酷く悲しくて……何より、残酷だよ。でもきっと――)
それがきっと、俺とお前の贖罪なのかもしれない。
小指の感覚も、視界も、全てが遠退く感覚に襲われる。今まで共有していたものが分離して、茶色い髪に黒づくめの服、そして服に着られているような印象の童顔が見えた。
(ふっ……ボスらしくないな。でも、それでいい)
薄れゆく景色の中で、沢田綱吉がこちらを向いた……ような気がした。
(俺達が辿り着く先が別れでも、更にその先に待つのは、きっと――)
眼を開けると、見覚えのあるはずの景色が色を変えて広がっていた。
雲のない真っ青な空は星のない薄闇に黒く染められ、朱い平原を形作っていた動かぬ彼岸花は、茎だけを残して地に落ちていた。茶ばんだ花びらは風も吹かぬここでは流されることもなく、虚しい姿を晒している。剥き出しの土は香らず、じっとりと湿気を帯びたまま停滞していた。
寂しい世界。骸の、世界――。
「……そこにいるんだろう、骸」
静かな空気が、ほんの僅かに動いた。その気配に振り向こうとして、小さな感触にとめられた。
「そのまま、振り向かないで」
背後から響いた高い声に、ジョットの喉は震えた。出来ることなら骸を正面から強く抱きしめてやりたかった。でもわかっていた。それをしてはならないのだと。これは覚悟。未来を選ぶための、残酷な覚悟だった。
「聞いてしまったのでしょう。もう時間がないのです。僕はもう僕でなくなる。今の僕は、酷く醜い。あなたには見られたくない」
淡々とした声だった。事実だけを述べて、心を隠した声音だった。
「痛みに囚われた僕が、彼岸花の丘で待っています。行ってあげて。彼がまだ彼であるうちに、僕がまだ僕であるうちに、どうか送って……」
訥々と紡がれる言葉のひとつひとつが痛みを伴っていても、ジョットは決して振り向かなかった。正義なんて伴わない。ただ、ひとつの意志のもとに。
「目を、閉じて」
言われるがままに、ジョットは両の目を閉じた。
「その時に、また――」
現実とも夢ともつかぬ声を最後に、背中の感触は消えた。
気がつけば、そこは瞼の裏と同じ暗い世界だった。現実の、血の臭いのこもる場所だった。
「大丈夫か、ジョット」
どうやらうずくまっていたらしい。隣で時雨がジョットの肩に手を置いて心配げに覗き込んでいた。
「……ああ。心配をかけたな。もう、大丈夫だ」
最後の覚悟は、出来た。
「行かなきゃならないところが出来たんだ。送ってくれないか、時雨」
あの子の、もとへ。
2008.9.25
次へ