020.




「はぁ……はぁ……」

 また、逃げているのか。
 あの時のように、大事な人を置いてたった一人で。
 強くなろうと決めたのに、また――。

 悔しい。情けない。怖い。怖いっ、怖い……っ。

 様々な感情はぐるぐると渦を巻き、ミーロを責めていた。

(……違う! 今考えるべきは、そんなことじゃないだろ!)

 そうだ、自分は大事な命を受けている。それだけはなんとしてでも遂行してみせる。今の自分にそれ以外の存在価値は求めなかった。
「はぁ……はぁ……!」
 緊張から荒くなり続ける息を手で隠して、ミーロは散々走り回った屋敷の見取り図を頭の中に展開した。嵐の部屋は執務室にもっとも近かったはず。しかしそれは同時に骸からも近いということになる。
(嵐兄なら、きっと――!)
 微かな希望を無理矢理確かなものにして、ミーロは走った。自分で自分を励ましながら、嵐の部屋のドアノブに手をかける。ノックなんてしていられない。

 ガチャッ

「嵐に――!!」

 ……いない。
 嵐の几帳面な性格をそのまま現したようなその部屋は、どこまでも丁寧に整理されていた。ぴんと張ったベッドのシーツ、寸分違わず真ん中に置かれた枕、左右対称の調度品たち。だからこそ、誰もいないことが一目でわかる。
(落ち込んでる暇なんてない。誰でもいい、探さなきゃ!)
 早くしないと、また――。

 キィッ……

「っ!!」
 この部屋ではないが、近くの扉が開いたのだろう、軋んだ音。それは容易にミーロの心臓を圧迫した。
 音の出所は、おそらく執務室――。
(ジョット兄……!)
 あの部屋は侵入防止のため、至る所で音がなるようになっていた。窓も床も扉も、ことあるごとに軋むのをおもしろがっていて叱られたこともある。叱ったのは確か嵐だった。なんだかんだで面倒見のいい彼はいろんなことを知っていて、なのに時々抜けていて…。
(どこ、どこにいるの、嵐兄!?)
 ここにいれば、骸に見つかる。一人でいれば、確実に殺される。なら、動くしかない。
 意を決してミーロは部屋を出た。慎重に辺りを窺っても、見える範囲に骸の姿はなかった。だが、移動すればいずれは彼の視界に捉えられるだろう。視界になど入らなくても、すべて見透かされているかのような錯覚が襲うけれど。あれはそれくらいに恐ろしくて、得体が知れなくて、不気味なモノ。
 いっそのこと部屋という部屋を全て開けて、誰でもいいから縋り付きたい衝動が後から後から湧いて出てくる。大声で叫べば、誰かしら気付くのではないか。そんな思いにかられるのも仕方があるまい。
(そんなの、駄目だ)
 魅力的な考えをなんとか振り切って、音を抑えながら走った。
 叫べば、誰よりも早く気付くのは骸だ。よしんば近くにいた誰かが駆け付けたとして、骸を止められる人間がどれほどいるというのか。
(守護者を……守護者じゃないと……!)
 だから今は、捜すしかない。
 ここから次に近いのは、雨の部屋だ。だが、間に執務室を挟んで反対側に位置する雨の部屋に辿り着くには、必然的に執務室の前を通らねばならない。
 確実に、見つかる。
 ならばいっそ窓から外へ出て、1階の晴の部屋を目指すべきか。
 外へ出て叫べば、守護者の方が先に気付いてくれるのではないか。
 だが、そんな思考を冷たい声が遮った。



 10……



「ひっ……!!」
 鬼ごっこ、だ。

『屋敷外は、反則』

 骸の囁きが音も立てず脳内で甦った。鮮烈な記憶。この恐怖の始まり。
「う、うぅ……」
 どうしようもない脅迫観念が邪魔をして、ミーロの行く道を限定する。行くしかない。だが、だからと言って身体の震えが治まるはずもない。



 9……



「っ……!」
 容赦のないカウントは、どんどんミーロの精神を侵していく。どのみち、行かねば死ぬのだ。もし本当にあの時の鬼ごっこを踏襲しているなら、10秒の猶予が与えられるはずだ。ならば、こんなところで震えている場合ではない。



 8……



 声は先程から動いていないようだ。つまり、骸は動いていない。こちらの動きを待って――いや、愉しんでいるのだ。雨の部屋に向かえば、鉢合わせは確実。
(なら、執務室とは逆方向の階段を降りて一階へ行こう。晴兄の部屋なら、こちらの方が早く着けるはず……! 焦るな、考えろ! 最善の道を選べ!)



 7……



 音を抑えることも忘れて階段に飛び込む。天井が高い分、段数も多い。小さな身体を目一杯動かして、飛び降りるように駆け下りた。足を貫く衝撃が身体を軋ませたけれど、脳は痛みを感じる余裕すらなかった。



 6……



 いくらか音としての声は遠くなった気がする。だが音が小さくなっても、頭の中には変わらず声が響いていた。あの日の忌まわしい記憶が、じくじくと足を腐らせていく気がした。記憶に翻弄されるように、足がもつれる。
「あっ――!」
 どたっ、と哀れなほど日常的な音を立ててミーロの身体は床を転がった。柔らかな絨毯のおかげで痛みは少ない。だが――



 5……



「うっ……ぁ」
 聞こえもしない声がミーロの心臓を鷲掴むように締め上げた。
 精神的な痛みを堪えてなんとか身体を起こしても、どうしたって震えてしまうこの身体が酷く情けなかった。



 4……



(早く……速く……!)
 ミーロは再び駆け出して、晴の部屋の前までたどり着く。面倒見のいい彼の部屋には筋トレグッズがいっぱいあって、ミーロも何度か共に汗を流したこともあった。汗を流すことより、隣で励ましながら筋肉談義に花を咲かせる晴兄がおもしろかった。ミーロの元々筋肉の付きにくい身体は大層鍛えがいがなかったろうに、彼はずっと付き合ってくれていた。
 何度もそうしたように、ノブに手をかけ、捻る。



 3……



 ガチャっ、ガチャガチャッ

 開か――ない。

(どうして!?)
 焦りながらノックと呼ぶには荒々しい仕草で戸を叩く。
 がんごん、と大きな音とともにミーロの手の皮がびりりと裂けて戸に血の円を描いた。しかし、部屋の主のうるさいくらいの声は返って来なかった。



 2……



「晴兄……! 晴兄!! 開けて! お願いだから返事して……!!」



 1……



 かちゃ……

 突然控え目な音を立てて、少し先の廊下――会議場の扉が開かれた。

「……ミーロ!? どうして――」

 安心感を与える聞き慣れた声と、特徴的な侍装束。
 やっと、辿り着いた――けれど。





 0……






 無情なカウントは、今終わった。
(ああ、雨兄……そういえば、あの日俺を助けてくれたのは雨兄だったよね。変な格好だとか言ってごめんね。だっていきなり極東の島国の民族衣装だよ? 誰だって驚くって)
 ミーロは時間感覚の欠けた世界で、静かに、ポケットからナイフを取り出した。あの日からずっと肌身離さず持っていた、父の形見のナイフ。あの時、立ち向かう勇気をくれたもの。いずれ仇を討つ時のために、密かに訓練していたもの。ジョットに言ったらきっと怒られたろうけど、なんとか隠し通したもの。ひょっとしたらとっくにバレていたのかもしれないけれど。
 雨が、何か言っている気がする。でもやけに音が遠くて、良く聞こえなかった。
 その代わり、脳裏に響く嗤い声。でも、もう恐れない。


「ありがとう、みんな」


 背後に膨らむ殺気にも、この身はもうすくまない。心は決まっていたから。
 手にしたナイフを少し引きつけ、何度も練習した動作で、今までで一番無駄のない動作で、流れるように投擲した。
 
 ――雨へと向けて。

「っ!?」

 ミーロの方から感じる凄まじい殺気も相まって、雨は反射的に身を退いて会議場に身を潜めようとした。そしてその一瞬の間に、視界の隅で、骸を、捉えた。
 満足そうに微笑むミーロの後ろで、嗤う、骸を――

「ミっ――」

 ごぉぅっ

 雨の叫びを丸ごと飲み込みながら、鼻先を地獄のような熱が掠め、幻覚のはずの炎はただ貫いた。ミーロの、身体を。
 ぐしゃ、という音は、それに比べれば随分と小さな音だった。でもひたすらに生々しくて、どうしたって耳について、一瞬のうちに現実を叩き付けて転がった。ごろごろ、ぐちゃぐちゃ、ぼぉぼぉと、いろんな音を混ぜこぜにしながら、ミーロは悲鳴のひとつもあげないままに、動くことをやめた。
 
 もう、絶対に、動くことはない。




「…………な、んだよ、それ……っ?」




 呆気無さ過ぎる結末に、心は叫んでいるのに、雨の口から出たのは音になるかならないかの掠れた声だった。 脳は理解しているのに、感情はまるで理解してくれなかった。
 どうしてここにミーロがいるのか、わからない。どうしてここにいたのか、わからない。どうしていなくなってしまったのか、わからない。
 混乱する頭を整理する間もなく焦げ臭く燻る廊下に出れば、子供の姿を隠しもしない骸がにこりと微笑んでいた。いっそ無邪気に、晴れ晴れと。

 これは現実なのか? 
 それとも、これも骸の幻覚?
 この肉が焦げたような嫌な臭いも、無造作に転がるミーロだった黒ずんだ塊も、嗤う骸も、全部全部、幻なのか?
 誰か、教えてくれ――。 

「おやおや。本当、悪あがきのお好きな子でしたねぇ、ミーロくんは」

 もういませんけどね、と楽しそうに肩を震わせる骸に、雨はカッと頭に血が上るのを感じた。だが身体が熱くなると同時に、ひどく冷めた感覚があった。ひどく冷静に、今の状況を分析して敵に対処しようとしている自分がいた。
 でも、でも――

(敵って、だれだよ……!)

 あのあどけなさを残す子供が、敵?
 どうして? どうしてそうなった?
 もう、何もかもがわからない。
「どう、して……!」
 搾り出すように問いを発するが、頭の隅の隅の方で答えは出ていた。ここにミーロがいた――それが理由。そんな、理由。
「骸! ミーロぉっ!!」
「っ……ミーロ……!!」
 雨に続いて嵐と晴も廊下に出たのを無感情に見つめて、骸はため息まじりに呟いた。
「邪魔、なんですよね。だれもかれも。あなた方も。ボンゴレファミリーも、みぃんな」 
 嵐は握りしめた拳を震わせて、骸を睨みつける。
「お前は……っ! お前はどうしてそこまで非情になれる!? ミーロはまだ子供だった!」
 しかしその叫びに骸はくすりともらし、
「僕にとってはジョット以外の全てが害悪足り得る。そこに子供だ大人だなんて何の関係があると? 幼虫でも成虫でも、害虫は害虫でしょう。駆除するのは当然のことだ」
 何を今更、といいたげに首を傾げた。
 守護者たちは絶句して、骸を見つめた。それしかできなかった。価値観が違い過ぎた。立っている世界すら、違うのかもしれない。同じ場所にいたはずなのに、もう、あまりにも遠い。
「ところで、他の皆さんはどちらに? せっかく帰って来たのに挨拶もなしというのは、やはり少し寂しいんですけど。というより、気配すらありませんよね。こうなることを予期してジョットが避難させた――そう考えていいのでしょうか」
 きょろきょろと辺りを見回して、骸は胡乱げに目を細めた。ほんの少しの苛立ちを交えて。
「そうだっ、ボスは!? ボスはどうした!!」
 ここに骸がいることの意味に思い当たって、嵐は声を荒げた。
「クフフ、さあ? でも、早く行ってあげた方がよろしいですよ。床は冷たいですし、風邪を引いたら大変ですからね。クフ、クフフ……」
「……く、そ……くそっ!」
 反射的に走りだそうとする足を強い意思で押さえ付け、視線を晴に寄越す。今すべき最善の道を選ぶこと。それが右腕としての自分の役割であることを、嵐は理解していた。そこに感情を交えてはいけない。
「……うむ。任せろ!」
 それを受けて、晴はしっかりと頷いた。そしてそのまま嵐と雨を置いて、迷いなく走り出す。骸のすぐ横を擦り抜けても、骸は視線すらやらずに不動を貫いた。
「クフフ、前衛が二人もいたところで意味がないですものね。基本に忠実ですね、右腕さん」
 一度に二人を相手にすることになっても、骸は余裕を欠かなかった。
「もう黙れ! お前はもう、ファミリーじゃない。もう駄目なんだよ、骸……!」
「きっとあの時が、最後の分岐だったんだ。ミーロの仇、とらせてもらう!」
 雨と嵐はそれぞれの武器を構え、抑えていた殺気を解き放つ。それを骸はさらりと受け流して、不敵に微笑んだ。
「やれるものなら――やってみなさい」
 骸の身体を霧が包み、瞬きの間にその影は大人のそれに変わっていた。

「さあ、大掃除といきましょうか」

 その言葉を合図に、二人と一人は同時に動いた。



























「もっと急いで!」

 雷の悲痛な声が、馬車の音に紛れることなく響いた。今すぐ走りたいもどかしさを抑えて、御者を焚き付ける。
 ミーロの足どりを掴むのに時間がかかり過ぎていた。元々初日ということもあって屋敷からそう遠くまでは来ていない。だからこそ、移動手段より出発時間が鍵になる。
 御者を何度急かしたところで、果たして意味があるか。
「早くしないと、ミーロが――!」
 街で眼の色が左右で違う子供を見たと聞いた時は、身体が震えた。護衛の話では、ミーロは誰かを追うように走り出したのだという。嫌な、符合だった。心臓を鷲掴まれたような恐怖に、身が竦んだ。
 ミーロをひとりにすべきじゃなかった。

「ミーロ……!」






























 廊下一帯を覆う霧の中、嵐は耳を澄ませて烈しい剣戟の音から二人の位置を測る。反響の具合、足音、床の軋み、息遣い、その全てが発する振動から骸の位置を割り出してナイフを投擲する。ワイヤー付きのそれは、空中で方向を変え霧の中の骸へと突き進んだ。
 しかし、きん、と澄んだ音が返って来たことから、ナイフは槍に弾かれたのだろう。ほぼ同時に雨の刀が勢い良く突き出されただろう空気が裂ける音が響いた。
「ちぃっ」
 舌打ちは雨のものだ。どうやらかわされたらしい。全ての事象が音と気配でしか感知できないのだ。
「……くそ……!」
 毒づきながら、嵐は次なる一手を考える。
 骸は強い。
 雲とも互角に争ったというその特殊能力は聞いてはいた。だが、骸の強さはそれだけではなかった。特筆すべきは、その判断力。己の力を知り尽くした上で成り立つ戦術は、守護者二人を同時に相手にしても衰えを見せない。
「早めに諦めることをオススメしますよ。その方がこちらとしても楽ですし」
 余裕をたっぷり含んだ声音は、少しも息を切らした気配がなかった。実際、骸は無駄な動きを一切していないのだ。一方こちらは霧に視界を奪われ、極度の集中力を必要としている。骸と剣を交える雨はおそらくもっと疲労している。見えない敵の気配を読み、一瞬の判断で動く。それは通常より遥かに集中力を要し、脳と身体を容赦なく打ちのめした。
「くそ、余裕ぶりやがって!」
 だが、声から位置を割り出すことは出来ても、すぐにナイフを投擲することはできない。骸は音――幻聴すらも操るのだ。雨と切り結んでいる時はまだしも、こちらに意識を向けている今は幻覚を使用している可能性が高い。現に声の位置はバラバラで、それだけで平衡感覚が狂う。骸の力は暴力に頼る単純な強さではない。霧の称号そのままに、人を支配し操る強さ。
 つくづく厄介な相手だと、嵐は奥歯を噛み締めた。
(せめて骸をこちらと同じ舞台に立たせられれば――)

「……!」

 あった。盲点とも言える手段が。
「ほら、来ないならこちらから行きますよ」
 
 やるしか、ない。

「……来れるもんならなっ!」

 嵐は懐から丸いボール状の物体を取り出し、低く投げた。骸にも雨にも当たらないそれは、床を低空で飛んで、次の瞬間、ぶしゅう、と白い何かが広がった。
「なっ!?」
(煙幕!!)
 霧に隠れた視界を、更に白い煙が覆い隠していく。廊下の風景は一見すると変化していないようだが、骸にとっては違った。雨と嵐の視界を奪う霧は幻覚だが、これは現実。
 骸もまた、視界を失った――。

「お株を奪われた気分ってやつか?」

「……!」
 雨の声は骸の予想以上に近かった。
 そしてその直後、立ち込める白い煙に不自然な切れ目が生まれた。

 ひゅがっ

「くぅぁっ……!」
 骸は閃く白刃をぎりぎりのタイミングで弾いたものの、やはり反応が鈍っているのを自覚せざるをえなかった。隠れるのは得意でも、隠れているものを見つけることには長けていないのだ。雨と嵐の限界まで研ぎ澄まされた感覚には勝てない。
 そしてもうひとつ。幻覚は、正確な空間把握と人心掌握があって初めて成り立つものだった。限られた視界では、大規模な幻覚はもちろんのこと、中距離攻撃すらままならない。接近戦しかない。だが、相手は接近戦に特化した雨と中距離援護を得意とする嵐だ。迎撃は難しい。
「ちっ……」
 互いに、一筋縄では行かない。
(分断すべきか……いや、そう易々と誘いに乗りはしないだろう)
 とにかく、動揺すればするほど気配を辿られやすくなる。揺らぐ必要はない。揺らがせるのが自分なのだから。
 骸は小さく深呼吸をするだけで、心を落ち着けた。まだ、焦る必要はない。
「はっ、急に黙っちまったな。悪いが、こっちは手加減なんざしてらんねーぜっ」
 床を強く踏み締めただろう鈍い音。次いで風を切る音。
 雨と嵐に音を操る術はない。音はいまだに骸の味方をしているが、音で判断するのでは遅過ぎる。
「っ……!!」
 骸は反射的に身をひねるが、神速の突きは骸の首筋に赤い直線を描いた。じりっ、と走る熱。しかしそれを痛みと判断する前に、雨はもう一歩を踏み出していた。
「まだだぜっ!!」

 ぎゃるっ

 強い摩擦音と同時に吹きすさぶ風。爆発的に膨らむ殺気に骸の肌が瞬時に粟立つ。常に飄々とした態度を崩さなかった彼の、守護者としての姿だった。信じたもののために振るう刀は、熱く激しく、そして冷徹に輝く。
(……!!)
 骸のはるか昔に無くしたはずの生存本能が、悲鳴をあげる。
 踏み込みが、圧倒的に深い。骸の本体ごと確実に抉る軌道だった。そこに容赦はなく、明確な殺意だけが見えた。
(なるほど。やはり守護者の称号は伊達ではないということか)
 騒ぐ鼓動とは対照的に、骸の頭は冷めていく。もとより、こちらも手段を選ぶ気はない。

 だから――

「許せ、骸……!」
 立ち込める白煙を裂いて、雨の姿が現れる。相も変わらず甘い。

(その甘さが、命取りですよ)



「っ!!!」



 雨は、骸を切り裂く直前でぴたりと動きを止めた。
 突き上げた刀は小さな顔の目前で完全に静止して、風だけが骸の前髪を揺らす。煮詰めたハチミツみたいな、金色の髪は、すぐに落ち着いて額を隠した。
 そこへタイミングを計ったように嵐のナイフが襲い掛かる。完璧に骸の位置を読んだその刃は、空中で軌道を変え寸分違わず骸の背を狙う。

 ききんっ

「なっ――おい!?」
 動揺を隠せない嵐の声がこだました。
 ナイフを弾いた音は、確かに刀のものだった。雨の、刀。
「くっ……!」
 苦悩に満ちた呻きが至近距離から聞こえて、骸は笑いを抑えきれなかった。
「クハっ、クハハハ! 護って下さってありがとうございます――『雨のお兄ちゃん』?」
「……っ!」
「ああ、『雨兄』、の方かな? クフフっ、優しい優しい雨兄! あなたじゃ僕は殺せない!」

 その、声は。
 その、姿は。

「……ミーロ……!!」

 徐々に晴れゆく煙の中、ぼんやりと浮かび上がったのは、失ったはずの愛しい子供の姿だった。なかなか伸びないと悩んでいた身長、強くなりたいとこっそり鍛えていた細い腕、母親似だと言う整った面差し。その中で、酷薄な微笑だけが本性を語る。それでも、その姿は紛れも無く、彼の――。
「クフ、そんな泣きそうな声を出さないで下さいよ。もらい泣きしちゃいそうですよ?」
 余裕の表情でくすんくすんと泣き真似をして、骸は雨に触れそうなほど顔を近づけた。雨の表情はみるみる歪んで、その瞼は現実を拒否しようと重さを増していく。ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえて、骸をますます愉快にさせた。
「お前――お前はっ! どうしてそこまでできるんだよ!? こんな、こんなのっ……!」
「はっ。まさか僕に道徳を説くおつもりで?」
 骸は、ミーロそのものの姿で、ミーロそのものの声で、嘲笑った。ぬるりとした手つきで自分の顔を撫でながら。
「この顔、そこに転がってるのみたいに丸焦げにしてみましょうか。クフフ、ふやけた水死体みたいにしても面白いですかね」
「死者を冒涜するのはやめろ!!」
 嵐が堪らず叫んだ。しかし骸は動じることもなく、笑みを深める。
「……冒涜? ひどいですねぇ。僕が彼の姿を借りたことが彼への冒涜に繋がるというわけですか。クフフ、その発想こそ僕への冒涜では?」

「「黙れっ!!」」

「おやおや。嫌われたものだ」
 言葉とは裏腹に、骸は愉しくてしょうがないというように口角を吊り上げた。だって彼らはどんなに叫ぼうとも、詰ろうとも、怒ろうとも、猛ろうとも、骸に――いや、彼らの中の思い出に傷を付けられないのだから。
 実に甘ったるい。虫酸が走る。
(甘さと優しさは相入れない。そして相入れるべきでもない。どちらも捨てられないからこうなるんだ)
 ボスがボスなら、部下も部下か。
「……っ」
 火傷の跡のように、骸の胸はほんの僅かに疼いた。彼らは、ジョットと同じ。近くに居すぎてわからなくなっていただけで、セエレもそうだったのかもしれない。甘さと優しさの、そのどちらもを取ってしまった人達。
 でも、骸は違う。
 骸だけは、違う。
(……それがどうした。間違っているのは僕じゃない。間違っているのはこの世界。この現実そのもの。僕は死の先に理想郷など存在しないことを知っている。だから僕はここに築くんだ。僕だけの、小さな理想郷を!)
 そのためならば――。
 以前の焼け焦げた様相を取り戻した空間に新緑色の蔓が伸びる。それらは戸惑いのさなかにある2人を容易に搦め捕った。

「あなたがたのことは疎ましかったけれど、たぶん、そう……。嫌いでは――ありませんでしたよ」

 紛れも無い本心を吐露しながら、しかし蔓で容赦なく二人を締め付ける。
「くっ、む……くろ……!!」
「く、そっ……ぁ!!」
 腕を圧迫されて、簡単に刀とナイフが滑り落ちる。かしゃんがしゃんと余韻の少ない金属音が響いて、ミーロのものか床板のものかもわからない灰が、少しだけそれを覆った。

「だから、来世では、どうか幸せに」

 骸は細い手で槍を高く掲げ、振りかぶる。悲しみも喜びもなく、ただ無表情で。







「さようなら。家族に近しかった他人たち」








 ばちぃっ


「っ!? ぁ――?」

 気付いた時には、遅かった。
 ちりりと微かな音と空気が焦げる臭いと、そして一瞬の閃光が骸を貫く。

「っぁ、あぁあ゛ああっあぁっぁぁっっっ!!」

 痺れるなんて生易しいものじゃなかった。痛みを超えて身体が死に近づく感覚。内側から身を焼く熱さ。視界が白と黒に目まぐるしく染まり、身体が傾いだことにすら気付けない。燭台の灯がちらついて、天井が揺れて、床が頭を叩いて、唐突に止まった。

 ぱちっ ばりりっ

 自分の身体なのかもわからない肉の塊から、嫌な臭いが立ちこめる。
「ぁっ……」
 手の一本、指の一本すら動かせない。事態の把握が追い付かない。呼吸もままならない。痛覚すら機能することを放棄して、喘ぐ骸の鼓膜を不規則な荒い息が揺らした。

「はぁっ、はぁ……っ、ミーロのっ、仇だ!!」

 その声には聞き覚えがあった。骸を除けば最年少のファミリー。いつもおどおどと自信がなく、マフィアだなんて信じられないくらいの特級の甘ちゃんで――。

(……雷、か……)

 愚かなあの少年が、まさか自分を追い詰めるとは。焦りを感じる余裕をなくし、骸は淡々と事態を感じとっていた。ミーロの姿をした骸を、雷は攻撃したのだ。全力で。殺すつもりで。
「オレ、にはっ、オレには迷っている資格なんてないんだ……! ミーロがこうなったのはオレのせいだから……! だから……っ」
 必死に涙を堪えているのだろう、その声は明らかに震えていた。
(泣き虫……)
 あぁもう、頭が働かない……。
 動けない骸とは裏腹に、幻覚が解けて雨と嵐は自由を得た。焦げた床に転がっていた得物を取ったのだろう音がやけに遠くに聞こえたものの、首すら満足に動かせない骸には確認できない。けれど、2つの気配が近寄ってくることだけはわかった。雷は来なかった。きっとあの忌まわしい子供の側にいるのだろう。
(くだらない。また、あの子供か)
 ぐっ、と手に力を込めたつもりでも、それは赤子の手を優しく握る程度の力にしかならなかった。ほんの少しずつ痺れはとれていくが、彼らは悠長に待ってなどくれないだろう。きっともうすぐ殺される。脳のどこかが焼き切れたのか、どうしてか危機感が湧かない。
 彼らの接近により、倒れたままの骸の顔に影がかかった。ようやく、思考が焦りを覚え始める。
(まだ……まだ、僕は――)

「む、くろ……? その、顔は……!?」

 息を呑む音がふたつ重なった。
(……何……?)
 ようやく動かせるようになった手を身体を起こすために床に付いて、骸は硬直した。
 手。手が――

「ぁ……、ああっ、ぁぁああああっ!!!」

 すべての幻覚が、解けていた。
 隠し続けていたのに。自分すら騙して、滑稽なほど必死で隠していたのに。それが今、曝け出されていた。

(い、嫌だ……早くっ……早く幻覚を――!)

 痺れの残る左手で必死で右手を隠し、隠そうとしているはずの右手で顔を隠し、骸はがたがたと震えだした。その様は異様で、その状況こそが異様で、雨と嵐は困惑を隠せない。
「骸、それ……何だよ……!?」
 骸同様震える声の雨から離れようと、骸は腕で顔を庇いながら後ずさった。幻覚で覆い隠して、なかったことにして、少し脅かしてみたかっただけだと嘲笑ってやりたかった。でも、右目が痺れを訴えて、幻覚を練ることができない。気は焦るのに、右目は反応を返さなかった。槍すら失って、骸は裸同然ーーいや、心臓を差し出したに等しい。
「見、るな……っ!」
 ただの子供のように叫ぶ骸に、雨が手を伸ばす。
「イヤだっ、見ないで……っ!」
「おい、骸!!」
 その手を弾こうともがくが、まだ僅かに痺れが残る身体では逃れられない。
(いやっ、嫌だ嫌だ嫌だ――!!)

「見るなぁぁぁぁああああっ!!」

 ぼぉうっ

「つっ!?」
 突如として立ち上った炎に、雨も嵐も大きく跳び退った。
 熱い。ミーロを焼いた炎と同じ熱さ。炎は既に一度焼かれた廊下を舐めるように広がって、この屋敷すら飲み込まんばかりに燃え広がっていく。
「お前っ!!」
 嵐が慌てたように声を荒げるも、その炎は壁となって行く手を阻む。
「くっ……!」
 炎の勢いが激しい。嵐は懐に抱えた爆弾を考えて後ずさるしかなかった。

「ク、クハ……クハハハハハっ!」

 骸は橙色の光に照らされながらゆらりと立ち上がり、狂ったように笑った。その姿は蜃気楼のごとく不安定で、判然としない。猛る炎はみるみる辺り一帯を包み込んだ。
「まずいぞ雨! このままじゃ屋敷が……!」
「あ、あぁ、でも――!」
 骸が、と言いかけて、雨は目を見開いた。

「骸……?」

 いつの間にか炎の中に骸がいない。いなくなっていた。

「おい! 無事か二人とも――!?」

 しかしそれを気にする暇もないまま、晴がぐったりとしたボスを抱き抱えて駆け込んできた。
「これは――いや、骸はどうした!?」
「…………ボスの容態は?」
 嵐は問いに答えなかった。その意味を察して、晴はひとつ頷いた。
「すぐに生命に関わることはないが、早く病院に連れていかないとまずい」
 簡単な止血は施されていたが、ジョットの腹は赤を通り越して黒く染まっていた。既に相当な失血だった。嵐の身体に血の代わりに冷や水が流れたような錯覚が走る。
「くそっ! 俺はこれから屋敷内の処理をする! 雷、ミーロを頼む! 晴はこのままボスを病院へ! 雨は街にいるファミリーを呼び戻して消火に――」
「嵐兄! 雨兄が……!」
 雷の声に辺りを見回せば、雨の姿が見当たらなかった。
「おい雨!? あいつ……まさか――!」


























「やっぱりここだったか」

「……!」
 振り向けば、懐かしい自室の入口に雨が立っていた。
「そういうところは変わらないんだな」
「……」
 骸は無言で絵を胸に抱きしめた。骸の宝物。これだけは、これだけはここに置いていくわけにはいかなかった。
 そんな骸の様子は雨の決意を鈍らせる。だから雨は視線を逸らした。迷うことは、許されていない。
「あれが何なのかは、聞かない。だが教えてくれ。ジョットはあのことを知っているのか?」
「……」
 答えぬままに、骸の周囲に息苦しいほどの殺気が広がった。

「……」
「……」

 数秒か数分か。互いに何も言葉は出なかった。
 骸はちらりと絵に視線をやると、そのまま踵を返す。
 
「……僕はまだ、足掻いてみせる……」

 ただそれだけを呟いて、骸は夜の闇に溶けた。
 雨は追うことも出来ず佇み続けるしかなかった。骸の部屋である証をなくした、がらんどうの部屋で。

「その先に、何があるって言うんだ……っ」

 ごうごうと炎は燃え盛り、屋敷は赤く、朱く、紅く染まった――。





























2008.8.8




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