019.




「頼みが、ある」

 人払いをした執務室で、ジョットは静かに、だが決意のこもった声で呟いた。
「……はい」
 それに応じる嵐もまた神妙に頷く。察しは、ついていた。
「ミーロを、どこか遠くへ逃がしてやってほしい」
 そしてそれはやはり嵐の予想していた通りの願いだった。
 少しの間を置いて、嵐は小さく息をつく。深呼吸なんて大層なものでも、ため息なんて後ろ向きなものでもなく。ただ、息をついた。
「……決めたんですね、ボス」
「ああ。俺はもう逃げない。骸と正面から向き合って、もう一度話すよ。あいつはやっぱり、俺の大切な家族だから……」
「ええ。それでこそ、あなただと思いますよ」
「はは、そっか」
 久しぶりに笑った気がする。少し前まで骸と一緒に朗らかな日々を過ごしていたのが、随分昔のことのように感じた。でも、まだ想い出にはしたくはない。これからもずっとずっと続くように、あの幸せな日々を、今度こそ取り戻したい。
 いや、取り戻してみせる。
「だが、ミーロを巻き込むわけにはいかない」
「はい。身元の引き受け先にはいくつか心当たりがありますので、その点は問題ないでしょう。しかし、本人が何と言うか……」
 ミーロにとって、骸は親の仇以上の存在だろう。当然憎悪の対象であり、今も殺したいと願っているのは確実だ。父の形見だと言うナイフを常に持ち歩いていることも知っている。そしてそのナイフこそが骸を抉った物だということも。その彼が骸のことを知れば、黙ってなどいられないだろうことは容易に想像がつく。骸にしても、ミーロの存在を知ればどういう行動に出るかわからない。
 今の骸は危うい。どんな些細なことでも容易に乱され、話をするどころではなくなってしまう。それだけは避けたい。
 やはり二人を会わせるべきではないのだろう。
「ミーロには何も言うな。その方がきっとあの子のため――いや、そんな言い方はずるいな。結局は俺のエゴのため、かな」
「俺たちの、でしょう? あいつは可愛げのないやつでしたけど、それでも、俺にとっても雷や他の守護者にとっても、家族のようなものだったと思います。雲のやつはわかりませんけどね」
 苦笑いを浮かべて、嵐は骸と雲とを脳裏に思い浮かべた。とことん犬猿の仲であったが、喧嘩ばかりの兄弟ってあんなかんじなのではないか。こんなことを本人たちに言ったりしたら、顔面陥没と胴体ピアスは免れない気がするけれど。
「ミーロは雷のやつに懐いていましたから、旅行とでも言って雷に送らせましょう」
 年が近いせいか、ミーロは雷と遊ぶことが多かった。最初からそうであったかのように自然で、雷もミーロを弟のように可愛がっていたが、それは骸に対しても言えることだった。そうそう受け入れる骸ではなかったけれど、どちらが年上なのかわからなかったけれど、むしろいじめっこといじめられっこのような関係だったけれど、それでもなんだかんだで雷は骸を弟のように思っている節があったのだ。不自然であっても、家族ではあった。辛いだろうが、きっとわかってくれる。
「ああ、それでいい」
「では、今日中に手筈を整えます」
「……頼む」
 だから、これでいい。迷っている暇なんて、ないんだ。




「……骸……」























「ミーロ!」
「あ、雷兄。どうしたの?」
 親しげに兄と呼んで、本を読んでいたミーロがこちらを振り向く。最初はまともに口もきいてくれなかったのが嘘のようだった。すべてを拒絶するかのように臥せって、それでも声をかけ続けてようやく向けてくれた眼差しは常に濡れているのが常だったのに。そんな彼が初めて兄と呼んでくれた時には、こっそりと涙したことを良く覚えている。つい最近の、想い出と言うには新しい記憶。でも、もうすぐ想い出になる。想い出に、しなくてはならない。
 本当の本当は、離れたくなんて、ない。
 でも、彼はここにいてはいけない。その意見には雷も賛成だった。ミーロの命にすら関わるのなら、迷ってなどいられない。生きてさえいれば、また会うことはできる。
 だから、嘘をつこう。ミーロも自分の感情も、ちゃんと欺いて。
 ここにはいない、嘘つきのあの子のように、上手に欺こう。
「……あのさ、ボスが長期休暇をくれたんだ。でさ、ちょっと遠いんだけど、一緒に嵐兄の知り合いの家に行かない? 海が綺麗なところで、おっきなプライベートビーチもあるんだって! 料理上手なおばさんなんだけど、豪邸にひとりきりで寂しいとかなんとか言ってるらしくて、ぜひ遊びにおいで〜だってさ。嵐兄は仕事で行けないって言うから、だ、だから、っだ、から――」
 あぁ、途中までうまくいっていたのに。
 声変わりしても少し高めの声が、どうしようもなく震えた。常日頃から弱虫だの泣き虫だの言われ続け、ついぞ自信に満ちることのない声は、これ以上ないほどに弱々しくて。
「そんな興奮しないでよ雷兄! 俺も行きたいよ!」
 雷の焦りをどう受け取ったのか、ミーロはしょうがないなぁ、と笑って雷の手を握った。小さくて、熱い手だった。
 骸の手を握ったことはないけれど、握らせてくれることはないだろうけれど、きっと彼の手はひんやりと冷たいのだろう。もしあの子が帰って来たら、その時は嫌がられても怒られても刺されても雲にけしかけられても、手を離さないでいよう。ずっと握り続けていたら、その手も温かくなるはずだから。
「そ……そっか! うん、良かった! さっそくで悪いんだけどさ、出来るだけ早く行ってあげたいから、今から、準備しよう?」
「うん、それはいいけど。……雷兄、泣くほど嬉しいの?」
 気づけば、いつの間にか自分にはよくよく縁のある水が頬をつたっていた。こんなんじゃミーロにまで泣き虫と言われてしまいそうだ。いや、ミーロになら言われてもいいけれど、最後まで格好がつかないのは少しばかり悔しい。可愛い弟にまでそんなことを言われたら、たぶん立ち直れないだろう。
 想像ばかりが先を走って、叶うことのない未来が過る。

「――あ、はは、ちょっと、こういうのって久しぶりだから、その……うん、楽しみで楽しみで!」

 零れる涙をフリルのついた袖で何度も拭っても、それは後から後から溢れてきて、どうしたって止めることは出来なかった。
 
 嘘をつくのは、やっぱり苦手みたいだ。























 てっぺんを過ぎた太陽を背に、黒服の男達が並んでいた。強面ばかりが揃った異様さより、皆微動だにしないことの方がずっと奇妙だった。
「あの人もう若くないんだから、やんちゃばかりしてあんまり走らせないようにな」
 いつものように不器用な笑みを浮かべるのは、嵐。
「わ、わかってるよ嵐兄!」
 ボス以外には少し冷たく見えるけれど、寄せた眉の裏側でとても深い愛情を持っていることに気付いたのは、つい最近だった。こっそりナイフの扱いを教えてくれたのは、ボスには内緒だ。
「好き嫌いすんなよなー」
 いつものように爽やかな笑みを浮かべるのは、雨。
「う、うん、たぶんね、雨兄」
 鋭く刃のような一面を持つ命の恩人は、家族の前では決して朗らかな笑顔を崩さない。変な格好だとか思っていたことは絶対に言えない。
「極限に息災でな!」
 いつものように無駄に熱くニカッと笑ってみせたのは、晴。
「相変わらずわけわかんないよ、晴兄」
 どんな時でも眩しいくらいに明るく快活で、しつこいくらいの兄貴肌で、ちょっと苦手。でも、深夜の走り込みにずっと付き合ってくれた時は、とても嬉しかった。
「……」
 それから――。
「どうしたの、ジョット兄?」
 笑顔で見送る守護者達の中、無言で佇むジョットにミーロが小首を傾げた。
「……いや、ちょっと……寂しいかな、と。ははっ、どっちが子供だかな」
 少し歪んでしまったが、なんとか笑みの形は作れたろうか。最後くらいちゃんと笑って送り出そうと決めていたのに。
(骸、お前のようにうまくはできないよ……。俺にも嘘の才能はないみたいだ)
「……元気で、な。ミーロ」
「? 変なの。どうせすぐ帰って来るよ」
「ああ、そうだな。いってらっしゃい」
 手の震えを隠すように無理矢理振る。何が『いってらっしゃい』だ。『さようなら』なのに。
 そんな心の声をごまかすために、ことさら明るく笑う。――笑えたと、思いたい。
「うん、いってきます!」
 ぶんぶんと手を振り返し、ミーロは軽やかな足取りで馬車に乗り込んだ。帰って来ることをかけらも疑っていないのだろう、その足に迷いはない。
「……雷」
「はい」
 低く呼べば、全てを察した雷が小さく頷いて、ミーロに続いた。
 雷とミーロと雷の部下2名、そしていかにも旅行に行きますという大荷物をこれ見よがしに乗せて、馬車はゆっくりと動き出した。そう大きくはない丸みがかった窓から、ミーロが身を乗り出して手を振っていた。
 しかし、それも御者の鞭の音を合図に徐々に遠ざかっていく。

(じゃあな、ミーロ)

 胸中で呟いて、嘘つき達は馬車が見えなくなるまで弟を見送り続けた。
 
 もうひとりの弟を、迎えるために。
























「先は長いから、今日はここで一泊しよう。おばさんにお土産も買わなきゃね」
「うん!」
 馬車から荷物を降ろして夕日に染まりつつある街に繰り出せば、人に溢れて活気づいた通りの脇に色とりどりの果物や野菜をはじめ、複雑な模様を連ねた服や織物がところ狭しと並べられていた。どうやら製糸業が盛んらしく、店ごとに自慢の一品を掲げて競い合っている。そのどれもが職人の誇りと言える逸品で、お土産と言うより献上品と言った方がいいかもしれない出来だった。
「た、高……!」
 そして当然と言えば当然だが、出来に見合った大層な額が堂々と値札に書き記されている。もちろん雷とてそう小さくはないマフィアの幹部なのだから、それなりの給金をもらっていた。だがジョットいわく、子供が大金を持つのは教育上絶対よろしくないとのことで、給金の大半は貯金にまわされているのだ。その結果、雷はマフィアにしては庶民的な金銭感覚の持ち主になったのだが――。
(そういえば、あの子もそうだったっけな。『はぁ!? 子供貯金!? 馬鹿にしてるんですか!!』とかボスに突っかかってたっけ……)
 ちらりと過った暖かい記憶に、胸が絞られるように痛んだ。
 貧乏くじばかり引いていた気がするけれど、どうしてか思い出すとそんなに悪いことでもなかったような気がして――

「ねぇねぇ、これって高いの?」

 服の裾を引っ張られる感触に、思考が一気に現在に引きもどされる。隣でまじまじと鮮やかな色彩の商品を見つめていたミーロが、そのうちの1つを手に取っていた。
 動揺を押し隠して、どれどれ?と白々しく覗き込む。
 が、別の意味で動揺した。
「たたたたたたっか〜〜〜〜!」
 非常に庶民らしい叫びを上げて、雷は慌てて商品を元あった場所に戻した。皺ひとつ残すのもためらわれて、必要以上に丁寧かつ素早い手つきだった。
「そうなんだ?」
 隣で不思議そうに小首を傾げる彼は、そういえばこう見えてマフィアのボスの一人息子なのだった。当然金銭感覚は良くも悪くもマフィア向きで、一般人より2・3桁ずれているのかもしれない。
「これ1着でミーロの好きなアップルパイが20年分くらいは買えちゃうよっ! そ、そもそもおばさんは裕福だし、こういうのはいっぱい持ってそうだよ。いっそ奇をてらった方がいいんじゃないかな」
 同じマフィアという組織に連なっているはずなのに、この差はなんだろうか。いや、骸はともかく、雷自身はジョットの教育方針は間違っていないと思うから、別段構わないのだけど。
 それでもなんとなくミーロの視線が痛くて、強引にこの場から離れる口実を作ってさっさと歩き出す。正論とは言いにくいが、筋は通っているはずだ、たぶん。
















「つ、疲れた……」
 そうしてこれは高いあれは派手それは安いこれってゴミじゃないの、などと言っているうちに、夕日が沈む頃合いになっていた。そしてまだ何も買えていない。
「雷の兄ちゃん、大丈夫?」
 一旦宿に行ったはいいが、力はあっても体力にはまだ難有りの雷は即座にベッドに倒れ込んでしまった。おそらくミーロに嘘をつき続けているという心労のせいもあるのだろう。
「ちょ、ちょっときつい……かな……」
「明日は朝一番に出発なんでしょ? 今お土産買わないと、もう買えないんじゃないの?」
 対するミーロは観光気分ゆえか、無駄に元気が有り余っているようでくいくいと雷のくせ毛を引っ張っている。まだまだ街を見ていたいらしい。
「うー……、じゃあミーロにお財布預けるから、そのお金で買える範囲内でお土産選んで来てくれる? 世間勉強も兼ねてね」
「いいの!?」
「もちろんファミリーの人についてってもらうけど、選ぶのはミーロの自由にしていいよ」
「やったぁ!!」
 飛び上がらんばかりに喜んで、ミーロは財布を片手に部屋を飛び出した。思えば、彼に財布を持たせたことなどなかった気がする。これから先、ミーロはマフィアとは無関係の生活を送るようになるのだ。自分がそばにいられるうちに教えてあげなければならないことはいっぱいあった。
「あんまり遅くならないようにね〜!」
 遠くから、はーい、と間延びした返事が返って来るのを聞きながら、ちらりとドアの外に待機している部下に目配せする。即座に部下は頷いて、ミーロの後を追った。
 やっとひとりになれて、絞り出したようなため息をつく。

「楽しい旅行、か」

 嘘ばっかり。

「嘘をつき通すのも楽じゃないんだね……」



















「あ、これもいい! あ、でもこっちもなかなか! んー、やっぱりこっちかな?」
 取っ替え引っ替え物色しながら、ああでもないこうでもないと悩む。だが、見るもの全てが新鮮で、悩むのも楽しかった。こういう時、本当にボンゴレファミリーに来て良かったと思う。
「……」
 でも、いくら今が楽しくても、あの日まであったはずの幸せは、返って来ない。今ある幸せは、それとは違うもの。似て非なるもの。この街にだって、できることなら父とともに来たかった。ひょっとしたら父はこんな色鮮やかな商品の数々など見慣れてしまっていたかもしれないけれど、きっとそんなことなどおくびにも出さず、笑顔で付き合ってくれただろう。
「……っ」
 一瞬、消える間際の夕日の強い光が血の色と重なって、立ちくらみを覚えた。あの日の光景が瞼の裏に蘇った気がして背筋がぞくぞくする。思い出したくなんて、ないのに。
「……早く帰ろう」
 もう土産なんて何でもいい。とにかく一刻も早くこの場を離れたかった。適当に目についた髪の長い人形を持って、財布から金を出そうと尻ポケットに手を突っ込む。

 とさっ

「あ……」
 慌てていたせいか、ぽろりと財布は路上に落下してしまった。
(あぁもう、早く……!)
 妙に気が急くのを必死に抑えながら身を屈めて財布を拾う。

 その時、だった――

「ひ……っ!?」

 行き交う人の波の向こうに、ちらりと見えた特徴的な紅と蒼は。
 黒に変わりつつある鈍い光の中で、なおも妖しく輝くその瞳は。
 紺色の髪は。
 自分と同じ小さな体躯は。

「どう、して――!」

 忘れもしないあの日、あの時、あの瞬間の、狂気に満ちた光景。

 どうして、どうして、ここは、違う、でもここは、ここはどこ?

 ミーロの足が動く。
「おい、ミーロ!?」
 慌てて護衛役の男が追うものの、帰路につき出して人通りの多くなった路では身体が大きい者ほど動きを封じられる。動く壁のように立ちはだかる人々の群れに腕を突っ込んで掻き分けようとするも、大通りには荷物を積んだ荷車やら馬車やらがごった返していた。
「く、くそ!」
 さらには、

「待ちな兄ちゃん」

 ぐいっと肩のあたりを掴まれて強引に振り向かされた。
「あの坊主はあんたのツレだろ? 金を――」

 ズダンっ

 今はそれどころじゃないとばかりに腕を掴んで豪快に投げ飛ばす。その間にも小さなミーロはすいすいと人の壁を潜って見えなくなりつつあった。
「止まるんだミーロ!」
 叫びながら再び人垣を掻き分けるが、またも肩を掴まれる。
「てめえ何しやがる!!」
 ああもう、そんなことはどうだっていいのに。早くしないと、あの子が――。
「くっ……待て、ミーロ! 待つんだ! ミーロっ、ミーロォォォォっ!!」
 
 願いとはうらはらに、ミーロの姿は人々の波と落ちた闇とに阻まれて見えなくなった。





















「……」
 骸のベッドに腰掛けて、壁にかけられた絵を見上げる。
 ジョットはもう随分と長いことそうしていた。

「犬、千種、凪、そして骸……か」

 絵の中には、微笑を浮かべた4人の子供達。優しい時間の絵。
 
 ――4人。

「セエレはここにもいない」
 あの子の墓は、夢の中にしかない。存在の証は、どこにもない。いなくなっても、誰も気付かない。
 それはどんなに寂しいことだろうか。どんなに悲しいことだろうか。
「俺は忘れないよ。お前のことも、俺の罪も」
 だからこそ、遺されたお前の半身は救い出してみせる。
 これ以上、失わせはしない。

「……そろそろ、か」






















 コン、コン……

 限りなく小さなノック音が響く。
 ドアからではなく、月夜を映す窓から。
 気付いてほしいのに気付いてほしくないような脆い意思が、それでもジョットを呼んでいた。

「……返事を待つなんて、らしくない」

 ガチャ

 いつかと同じで、どこか違う状況。
 
「……そう、ですか……」

 遠慮がちに入って来た影に、ジョットの胸は否応なく軋んだ。腕の中で融けた彼と、同じ顔。同じ身体。同じ瞳。そのただでさえ低い目線は、空を忘れたように床を彷徨っていた。
「あ、の……あなたに、どうしても会わなくちゃいけないような気がして……」
「……うん」
「迷惑、だとは、思ったんですけど、でも、あの……僕は……」
「何言ってるんだ。ほら、寒いだろ? 窓を閉めて。こっちにおいで」
「……」

 ぱたん

 言われるままに窓を閉め、一歩――たったの一歩だけ、彼は近付いた。まだ遠い。ジョットの手は、まだ届かない。月明かりのせいで影になってしまって、その表情も見えない。
(俺たちはいつの間にこんなにも離れてしまったのだろう……)
 とても、もどかしかった。こんなにもそばにいるのに、すぐに抱きしめることが出来ないのが、悔しくて仕方なかった。

「――久しぶり、骸」

(……焦るな。今の骸は落ち着いてる。大丈夫、ちゃんと話せる。少しずつでいい、急ぐな、骸を怯えさせたらいけない)
 音を立てぬように深呼吸をして、ジョットは口を開いた。
「傷は、もう平気なのか?」
「……はい」
「そうか。良かった」
 本心から安堵して、心を落ち着ける。そんなジョットに視線を向けることのないまま、骸の唇が僅かに動く。
「……ジョット」
「ん?」
「心配、してくれたんですか」
 声に少しの恐怖がかいま見えた気がした。
 怯えているのだ。あの、骸が。こんなことに。こんなにも当たり前のことに。
 悲しかった。その事実が。すべてが一変してしまったという事実が。
「決まってるだろ?」
 骸の恐怖を拭うように、できるだけ明るく微笑んでやる。しかし骸は窺うようにちらりと視線を上げて、すぐにまた俯いてしまった。
「――本当に?」
「大事な家族のことだ、心配したさ」
「……僕はまだ、あなたの家族ですか……?」
 きっとこれが骸の最も聞きたいことなのだろう。その声は揺らいで、骸の不安を如実に伝えていた。本当はこんな会話自体、間違っているような気がする。少なくとも、自分達のあるべき姿ではないのに――。
「例えお前が俺を見限っても、俺にとってお前はいつまでだって家族のままだよ」

「僕があなたを見限るなんてこと、ありえません……!」

 少しだけ声に力を取り戻して、骸は初めて顔を上げた。その2色の瞳は絶え間なく揺れ、すぐにでも瞼を閉じてしまいそうなほど不安定だった。それでも、その瞳にジョットを映してくれた。しかし、縋り付きたいのに拒否されるのが怖くて傍にいけないのだろう。どうしたらいいのかわからないのだろう。二人の間の距離が縮まることはなかった。今もきっと、骸の心は不安定に揺れているのだ。骸の中の彼岸花もまた、ありもしない風に揺れているのだろうか。
「それを聞いて、少し安心したよ。本当言うとさ、少しだけ怖かったんだ」
「怖い?」
「骸に――憎まれてるんじゃないかって」
「……僕が、あなたを?」
「ああ。たくさん、ひどいこと……しただろ」
「……」

「骸にも――セエレにもな」

「……な!!」
 ジョットの口から出た、親しくも忌まわしくもある名に、骸は目を見開いた。動揺が強い。だが、ここで引いたら意味がない。
「知ってるんだ、お前達のことは。全部ではないけど、ちゃんと知ってるんだ」
「どう、して……?」
 前世の話は何度かしたことがある。あまり好んで話そうとはしなかったけれど、気まぐれに話した記憶はある。でも、セエレの――もう一人の骸のことを話したことはない。だってその意味がなかったから。二人が二人である必要がなかったから。だから言わなかった。その、はずなのに――。
「夢の中で、教えてもらったんだ」
「ゆ、め……?」
「あたり一面彼岸花でいっぱいの丘だった。そこに、子供たちとセエレの墓があって…」
「……そ、れは――」
「骸が、作ったのか?」
「……っ……」
 無言は、肯定の証。まだ、光はある。
「……そっか。セエレは喜んだろうな」
「違いますっ、違うんです……!」
「……?」
「そんなの、彼のためなんかじゃない! 僕はただ、彼が死んでできた穴を、彼の遺体で埋めようとしただけ……。消えゆく彼を無理に繋ぎ止めて、隙間を隠しただけなんです……!」
「……」
「でも、駄目だった。所詮は空っぽの器だから、意味などなかった……。穴を塞いでなんかくれなかった……。そこからどんどん僕は剥がれ落ちて、かけらになって、小さくなって、ただただ空虚になるだけだった……っ」
 硬く握りしめた手は、何を繋ぎ止めようとしているのだろうか。白くなるほど強く握られた痛々しい拳を、できることなら今すぐに包んで解いてやりたかった。しかし反射的に伸ばそうとした手は、遠い距離を思って空中に留まるしかない。
「骸……」
「セエレは僕で、僕はセエレなのに。僕はっ、僕は自分を埋めてしまったんです!」
「違うさ。骸にとって、セエレはもう一人の自分である前に、誰よりも近しいひとりの家族だったんじゃないのか? そしてセエレにとってのお前もそう。あの墓は、骸の家族のための墓。お前たちの絆の証だ」
「そんなこと、僕にはわかりません……!」
「死に頓着しないお前が自分のために花を植えるなんてこと、ないんじゃないのか」
「……」
「お前の夢は――お前の世界は、すごく綺麗だったよ。綺麗過ぎて、寂しいくらいに」
「……」
「いつか俺もあの場所で眠れたら、お前の寂しさは薄れてくれるのかな…」

「――やめてください!」

「……!」
 突然の叫びに、ジョットは息を止めた。あれほど合わせられなかった眼が、正面から真っすぐにジョットを射ていた。
「あなたが死ぬなんて、考えたくない……!」
「骸……」
 しかしすぐに骸は顔を背けて、声を震わせる。
「いえ、違う、違うんです、僕が、僕が本当に望んでいるのは……!」
「……うん」
「今更何をと思うでしょうが、でも本当は、そんな……ことじゃ、なくて……!」
「……うん」
「僕はただ、あなたが離れてしまうのが怖くて、」
「……うん」
「穢してしまうのが、怖くて、」
「……うん」
「失ってしまうのが、怖くて……!」
「……そうか」
「自分でも、矛盾しているのはわかっています……。でも、それでも時々、どうしようもなく、あなたを――」
 紅い瞳に暗い影が落ちる。だがジョットは柔らかに両腕を広げ、それを迎え入れた。
 骸の想いは、すべて受け止める。逃げたりなんてしない。

「いいんだ、骸。――俺は、お前になら殺されてもいい」

 骸の身体が瞬時に強張った。その驚愕に歪む眼が、再びこちらを向いた。
「でも、お前の手を汚すのは絶対に嫌だ。だからお前に殺されたくない。……矛盾、してるだろ?」
「……」
「いいんだよ、骸。矛盾したっていい。あの時俺は、お前を傷付けたくなくてお前の手を払った。でもそれは、お前を何より深く傷付けた……。俺も、矛盾だらけだった」
 思えば、あの瞬間からこの歪な未来への道を歩み始めてしまったのかもしれない。
 そう、この未来を選びとってしまったのは、他でもないジョット自身。だから、その道を断つのもまた、ジョットでなくてはならない。
 だから。だから――

「戻って来い、骸」

「……!」
 手を、差し伸べる。まだ遠いその距離では、骸に触れることなど出来ないけれど。それでも、少しでも傍へ。
 迷いは骸を傷つけるだけ。迷えば迷っただけ骸の中の骸は消え、ジョットの知る骸が散っていく。ならば今こそ前へ。確かな一歩を、今こそ。前へ。前へ――


「戻って来るんだ、骸。他でもない、俺のもとへ。家族のもとへ! お前の居場所は、ここにある!」


 まるで時が引き延ばされたかのようだった。
 一瞬が永遠のように感じられる異質な空間の中で、骸はジョットの手を見つめ、ジョットは骸の眼を見つめ続ける。決して交わらない視線は、しかし遠ざかることもなく互いを見つめ続けた。

 そしてどれくらいが経過したのか。骸の震える手が、動く。

 ゆっくり、まるで時計の短針のように、ゆっくりと。
 時折ぴくりと大きく震えながらも、確実に。迷いながらも、それでも確実に。
 長かったようで短かった月日を刻みながら。

 そう。最初は、汚らわしい館から始まった。
 
 その次は、燃え盛る街だった。

 そしてこの温かな屋敷で初めて触れた。

 でもすぐに離れてしまった。離してしまった。

 なのに、その先で、また出会った。

 この屋敷で、すべてはもう一度始まった。

 信じられないような日々の連続。
 思いだすだけで眩しくて、温かくて、とても大切な記憶――。
 輪廻を廻り、悠久の記憶を持つ自分が、唯一“想い出”と呼べる過去。
 嫌なこともあったけれど、それすらも輝いて。
 想い出を今に重ねてもいいのでしょうか。
 未来に繋げていいのでしょうか。
 過去ではなく、今へ。
 想い出ではなく、今この瞬間へ。

 僕の居場所は、まだここにあるのでしょうか?

 骸の手が、ジョットの手と同じ高さにまで上げられた。
 その異色の眼は、少しずつジョットの手を辿り腕を辿り身体を辿り、いつしか琥珀の瞳へと辿り着く。
 不安げな色を湛えて揺れる瞳に、ジョットはこくりと頷いてみせた。

「……っ」 
 
 くしゃりと骸の顔が歪む。
 どうしたって震えてしまう身体を必死に抑えて。
 もう一度再会するための一歩を踏み出そう。
 踏み出すべきは、そう、今――

 
 バタンっ


「「――!?」」


 屋敷をかすかに震わせる突然の物音とともに、ひとつの気配が接近している。
 骸が警戒の視線を瞬時に強めた。夜気の冷えた空気が舞い戻り、全てが夢だったかのように崩れていく。世界が、変わる。

 ジョットは直感が告げてくる警告に身を震わせていた。

 そんなはずない。
 そんなはずがあっていいわけがない。
 なぜ。
 なぜなんだ――?
 駄目だ、来ちゃ駄目だ――ミーロ!!

 ガチャッ

「ジョットに――っ!?」

 そうして入って来た子供――ミーロは、声を、息を、思考を、忘れ去った。









 時間が、凍てついた。
























「……変、ですね」







 小さく、ほんの微かな呟きが一瞬でジョットを正気に戻す。
「骸――っ!」
 しかし気付いた時には既に骸は行動を開始していた。

 ガキィ!

「っ!!」
 死ぬ気の炎の推進力で強引に骸とミーロの間に割って入る。グローブで骸の特徴的な剣を受け止めながら、いつかと重なる光景にジョットは歯噛みした。あの時とは状況が違い過ぎたが。
「ねえ、おかしいんです。僕の目には、僕を刺した子供が見えるんですけど……気のせいですよね?」
「落ち着け骸! ミーロは――」
「ミーロ? そんなかわいらしい名前だったんですか。よくご存知ですね、ジョット」
 骸は静かに、湖面を思わせるほど冷静に呟いた。ただその光のない目だけがジョットとミーロをまとめて射抜く。ミーロはそのすべてを闇に引きずり込むような視線に耐えられず、崩れるように膝をついた。
「くっ……!」 
 ジョットは焦っていた。骸は一見すると落ち着いているように見えるが、これは恐らく前兆でしかない。心の混乱は、武器を通して伝わる小刻みな震えに現れていた。
 このままでは、まずい。
「ミーロくん? お久しぶりですね。お元気そうでなにより」
 空虚な笑みを浮かべて声をかければ、ミーロはその違和感に身を竦ませ、座り込んだまま知らず知らずのうちに後ずさっていた。無意識の内に、ジョットの陰に隠れるように。
 ぴくりと神経質に骸の眉が寄せられる。しかしすぐに貼付けたような微笑に戻った。
「でも、いつからジョットの家族になったんです?」
 三叉剣に更に力が込められる。動揺、だ。
 骸が――骸という縁で結ばれた魂の束が、揺らぐ。
「骸! 駄目だ、落ち着け!」
 その瞳が暗く輝くのを目にして、ジョットは骸の視界を己で塞ぐように身体をずらした。このままではいけない。本能と直感と感情とが大音量で警報を鳴らし続けて、マヒしそうなくらいだ。
 だが、ミーロを骸の標的にさせるわけにはいかない。
「ミーロ! 誰でもいい、守護者のところへ行け!」
 視線を骸から逸らさないままに叫ぶ。
「で、できないよっ、ジョット兄――」
「ジョット兄! クフフ、随分と懐いてますねぇ。――本当に、不愉快な子供」
 
 殺気が、広がる。

(まずいっ!!)
「行けミーロ! 早くっ!! 行ってみんなに伝えろ! お前にしかできないんだ、頼む!」
 骸の殺気を肌で感じたミーロは、ジョットの切羽詰まった一喝に震える足を動かした。
 仇敵が目の前にいるのに、あんなにも憎んだ相手がここにいるのに、ただただ恐怖が先立って、意思――いや、願望に過ぎない決意に関係なく、身体は立ち上がり、その足は駆け出していた。
 兄と慕うジョットを置いて。
 だが、

「ひぐっ、ぅ……!?」

 その懸命な動きが不自然にがくりと停止した。
「ミーロ!?」
 ミーロの身に起きた異常にジョットは視線を向けようとしたが、出来なかった。骸の視線がそれを許さなかった。捕らえるように、縋るように、ただまっすぐにジョットへと向けられた、その痛々しいまでの視線が。

「ねえ。どうして彼なんです?」

 間近に迫りながらもどこか遠い骸は、むせ返るように濃い殺気を一向に収めることなく、低く轟くように囁いた。それは子供の声のはずなのに、どこまでも深く、底が見えない。
 思考が黒く染まっていく。光なんてもう見えない。どこを見ても真っ暗で、眩しいはずのジョットさえ別の世界にいるかのように靄がかかっていた。

 暗い。
 怖い。
 何も見えない。
 あなたが見えない。
 痛い。
 苦しい。
 あなたはどこ?
 どうしてあなたは僕のそばにいないの?

「僕じゃ、駄目なの? ねえ……ねえっ、ねえ!」

「ちがっ――」

「嘘つき。あなたを信じていたのに……っ!」

 悲痛な叫びをジョットにたたき付けて、骸はジョットにしがみつくように抱きついた。顔を胸に押し付けて、いやいやをするように首を振る。その度に、ジョットの戯れでできた髪の房が小刻みに揺れた。
「こんなの……あんまりだ……っ」
「骸、違う! 俺は――」
 そうじゃないんだと、伝えたかった。
 骸を愛していると、伝えたかった。
 ここにいると、教えたかった。
 ずっとそばにいると、囁いてやりたかった。
 真実を、知ってほしかった。
 なのに――

 ドズッ

 単純で鈍い音は、ごく間近から響いた。

「む、くろ?」
 腹部が熱い。その部分だけ灼熱のように焦げつくのに、身体は冷えていく奇妙な感覚。熱が冷たい何かに奪われていく。次いで襲う激痛は――。

「…………ク……クフっ、クフフっ、クハッ、クハハハハハッ!!」

 狂った哄笑が空間そのものを震わせて、まるで悲鳴のような音を立てる。  

「クフ、フフ、これでお揃いですねジョット。ねえ、痛いですか? 苦しいですか? 加害者が憎いですか? 僕もそうだった。ねえジョット、僕が憎い? 憎いんでしょう? ねえ、ジョット! ねえ、ねえ……、憎まないで……! お願いだから憎まないで……。ごめんなさい、許して……! 邪魔者は全部僕が壊してあげるから、だから許して……! ねえ、許してくれますよね? 僕だけを選んでくれますよね? だって僕はあなたを許していますから。あんなものにうつつを抜かして僕のことを捨てたことも、僕以外を必要としたことも、僕以外を家族として扱ったことも、全部全部許してあげますから。でもこれでわかったでしょう? 傷の痛み、失う痛み――僕の痛みが!」

 ずる、と腹に突き立っていた三叉剣が抜かれ、その深い傷から心臓の鼓動に合わせて血が溢れ出す。
 あぁ、なんて綺麗。
 うっとりと蕩けたような笑みを浮かべる骸の姿が、歪む。急激な失血により、ジョットの意識は否応無しに霞んでいた。力の入らぬ手でかろうじて傷口を抑えても、ただ手を汚すだけ。
 
 また、赤くなってしまった。また。
 骸の手が、また――。

「む、くろ……! っ、駄目、だっ……! これ、以上、誰も、傷つけちゃ……!」
「クフフ、どうしたんですか? そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。邪魔者はすぐに片付きます。全部片付けたら、その時こそ二人だけで平和に暮らしましょう? 争うこともない、裏切ることもない、傷つくこともない、たった二人だけの安らかな世界で……」
「骸っ! 違……、ぅ……!」
 足に力が入らず、ジョットは膝を着いた。立っていられない。血が絶え間なく零れ落ちて、止まらない。意識が流れて、止まらない。
(く、そ……。ミーロ……ミーロは……!?) 
 視界の端に床での痙攣を繰り返すミーロが見えた。その目は焦点が合っておらず、どこを見ているのかもわからない。だがその表情は恐怖と苦悶に満ちていた。おそらく、幻覚に汚染されている――。
(止め、ないと……! こんなの間違ってる……! 絶対、間違ってるのに……!)
 慈愛すら感じさせる眼差しでジョットを見つめる骸に、力の入らぬ手を伸ばす。
「駄目、なんだよ、骸……! そんなんじゃ、幸せ、に、なんか、なれない……んだよ……!」
 しかし骸はその手を自分の頬に持っていくと、愛しげに擦り寄って微笑んだ。
「あなたがそばにいてくれること。それこそが僕の幸せ。それだけが、僕の幸せ。あなただって、きっとわかってくれるはずです」

 僕の愛の深さをね――。

 名残惜しそうに手を離すと、ジョットの額に触れるだけの口づけを残して歩を進めた。その手に、赤く濡れた剣を持って。
「やめ、ろ、骸……っ、行く、な……! むく、ろ……待っ、て……!」
 血を失い過ぎたジョットは意識を保つことができず、視界は抵抗も虚しくずるずると闇に沈んでいく。骸は振り返ることなく、遠くない理想郷を思って嗤った。
(まだ、だ!! 逃げ、ないと、決めた、んだ……! 骸を止める……! そう、誓ったんだ!!)

「く、ぅうあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

「っ!?」
 突然の雄叫びと舞い上がる橙色の炎に、骸の表情が驚愕に彩られる。
(この炎は――!)
 振り返った骸の視界に映ったのは、確かに立ち上がったジョットの姿。その、生と死の狭間からなる苛烈な炎。
 そして――
「な、何を……っ!?」
 その手に生まれた太陽の輝きは、ジョットの腹の傷を容赦なく焼いていた。ジョット自身の、その手で。
「ぐ、ぁぁあああぁっ、うぁっっ……ぁっ、はぁっはぁっく、あ゛、あぁっ!」
 額から汗を落としながらも、ジョットは遠のきそうになる意識を無理矢理に引き止める。今自分が倒れたら、骸はもう戻れない。
 止血なら、した。
 まだ、立てる。
 立ってみせる。
 骸の痛みに比べたら、こんな痛みなど痛みのうちに入らないから――。

「はぁ、ぁっ、誰、も……誰もっ、誰かの代わりになんて、なれない! 失ったものは、く……っ、もうっ、戻らない……! ミーロはミーロでっ、骸は骸でっ、あぐぅっ……セ、セエレは、セエレで……っ! 誰も、誰かの代わりになんてなれないんだ! わか、るだろうっ、骸! これ以上、何ひとつ失いたくなんてないんだ……! 誰もっ、失い、たくないんだ! 俺はっ、幸せだったあの、日々を、あの日々を共に過ごした骸を、失いたくないんだ……! お前の代わりになんて、誰もなれない!!」

「……っ」


「だから俺は譲れない! お前を行かせるわけにはいかない……!!」 



 最後の力を振り絞り、ジョットは骸の華奢な身体に抱きついた。
 それは全くもって無様で、不格好で、歪で、プライドなんてどこにも見えなくて、そして何より命をかけた美しい抱擁だった。
 骸の身体はびくりと強張り、しかしそれだけで。
 動くこともできず、逃れることもできず、ただ静かに瞳を閉じた。

「ミーロ! 早く行け!!」

 声を出すだけで激痛が走る中、ジョットは掠れた声で叫んだ。
 幻覚は、消えている。
「はぁっ、ぁっ、う……!」 
 ミーロは情けない姿で震える足を叱咤して、それでも懸命に立ち上がった。ジョットの想いを裏切るなど、出来ない。今ここで動かない足なら、切って捨てた方がいい。
 這うような姿で、荒い息で、ミーロは全身全霊の力を振り絞って部屋を飛び出した。
 それを音で感知しながらも、骸はジョットに身を任せ続ける。ジョットもまたそれを目で追うことなく、骸の低い体温を感じ続けた。やっと、手が届いたのだから。
 確かな重みを感じながら、骸は光に包まれていた。
 
「…………」

 ああ、本当にこの人は――。

「…………僕、は」
 
 どこまで真っすぐなのだろう。
 どこまで温かいのだろう。
 どこまで、眩しいのだろう。
 
「僕は……」

 先が見えないほど。
 触れたら融けてしまいそうなほど。
 見つめれば眼が潰れてしまいそうなほど。

「僕は――っ」

 ずきり、と右目が痛む。

(……うん。騒がなくとも、わかっているよ)

 瞼の裏に浮かぶ色は、紅。太陽に透けた血潮の色よりなお紅い。
 責めるように、咎めるように疼いて、気がおかしくなりそうだ。
 いや、違う。
 もう、おかしくなってしまった。
 もう、止まれない。
 例えその先に何もなくても、その道が間違っていても、それがわかっていても、もう戻れない。もうそんな時間はない。砂時計は割れてしまったのだから。
 止まっている猶予なんてない。無駄な足掻きだなんてわかっているけれど、立ち止まったその時に隣に誰もいないことに気付くより、ただただ突き進んだ方がずっといい。 
 そんな僕に。どこまでも堕ちる僕に。
 あなたはまだ手を差し伸べようと言うのか。



「僕は、あなたを誇りに思います」



 だから、そんなあなただから――

「だから、ジョット――」
 
 ああ、右目が騒ぐ。
 
 でもせめて、これだけは。






「六道骸を、輪廻に還して」






「え……?」

「ぁっ、ぅあ゛ああああぅっ!!」
 右目を押さえた骸の、甲高い悲鳴が耳を劈いた。
「骸っ!?」
 突然の事態に、ジョットは骸を抱く腕に力を込めることすら出来ない身体を呪った。力の入らない腕の中で、骸は右目を掻きむしって苦悶の表情を露にしていた。
「あ、ああっ、あッ、あ、ああ、あ゛ぁぁあっ!!」
「骸っ!! おい!!」
 それは尋常ではない様子で、何かに抗おうとしているようにも、何かにしがみつこうとしているようにも見えた。

「ぁ――」

 しかし、それは始まりと同じように突如として終わりを迎える。
 コインを裏返したように、パタリと。

「……」

 しん、と不気味なほどに静まり返り、先ほどまでの形相が嘘のような穏やかな微笑が間近に花開く。




「馬鹿な僕はいらない」




 刹那、目に飛び込んできたのは、見慣れた紅。
 綺麗だと、美しいと、いつまでも見ていたいと、数え切れないほどに感じた色。
 六の文字を刻んだ、天界を映す魔性の瞳――。
 

「や、やめ――」


 天界道。それは、人の意思を縛る力。




「少しだけ待っていて。すぐにまた、一緒になれるから」





 その声すら遠ざかり、ジョットは完全に意識を失った。



















 その時はずっと、ずっと一緒。



























2008.6.28




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