15.



「ぐぁっ!!」
「ジョルジュ! くっ……!」
 グローブで銃弾を弾きつつ舌打ちをもらす。いくらボンゴレには戦闘に特化した人員が多いとは言え、敵の数が多過ぎる。
(このままでは消耗戦になる……!)
 多数の敵相手に骸が参戦できないのはかなりの不利だった。しかも相手は古参のマフィア。統率もとれている。
「嵐! 体制を立て直す!」
「はい! 総員、レベル2行くぞ!」
 嵐の手から手の平サイズの球体か高く放られた。

 ぶわっ

「何!?」
 一気に広がる煙幕に、相手方に動揺が走る。その一方で、ボンゴレ側の行動は迅速だった。
 怪我人を担ぎ上げて、あらかじめ示し合わせていたルートで各自屋敷に撤退していく。
「守護者はまだいけるな!?」
「まだまだこれからです!」
「同じく!」
「はい!」
「当然だ!」
 屋敷の周りに散っている守護者全員から返事が返って来たことに内心安堵しつつ、ジョットはさらに指示を飛ばす。

「嵐は皆の援護を! 雨は北門の一団を切り崩せ! 晴は南だ! 雷は屋敷に近寄る連中を足止めしろ!」

「「「「了解!!」」」」

「生き残るぞ、みんな!」

 煙幕が薄らぐ中を、ジョット自身も駆け抜けた。
















「やはり数が多い」

 会議室の窓の脇に身を隠しつつ、外の様子を伺えば、白く広がる煙幕の隙間から守護者達が垣間見えた。
 一方屋敷内では怪我人の手当が行われているようで、うめき声がここまで聞こえてくる。

  「だが――」

 室内を振り返り、壁にもたれさせた我が子を見遣る。意識を失い、今はただのか弱い子供にしか見えない。
 自分が護るべき、小さな子。

  「お前だけは必ず……必ず私が護ってみせる!」

 自分は、この子の『父さん』なのだから。














(まずいな。このままでは押し切られるのも時間の問題だ)
 心臓を狙って放たれた弾丸を身をひねって避けつつ、突進してきた男に裏拳を叩き込む。
 男が倒れるのを見終わらないうちに、側面からのナイフを死ぬ気の炎で熔かしつつ回し蹴りでまとめて薙ぎ払う。
 ジョットの動きが停まったところを狙って数人が飛び掛かった。
「ボス!」
 後方からの声にジョットが身を低くすると、見覚えのあるナイフが脇を通り抜けて男たちに突き刺さった。本来なら首や眼を狙うことも出来る命中精度を誇るが、今回はいずれも腕や足など動きを封じる程度の傷だ。
 当然ながら、敵はまだ生きている。
「はぁっ!!」
 低く溜めた両掌を突き出し、死ぬ気の炎を噴出させ吹き飛ばす。
 派手に吹っ飛んだ連中は他を巻き込んで意識を手放した。
「やはり、きついな」
 絶え間無く攻め込んでくる敵の相手をしつつ、周りの状況を確かめる。
 敵の数は多いが、一人一人の戦闘力は並だ。ボンゴレの者達よりは確実に劣る。しかしあちらがボンゴレファミリーを殺しにかかっているのに対し、こちらはあくまで生かすことに重きを置いていた。
 守護者はまだいい。乱戦の中でも流儀を貫き通せるだけの力を持っているから。
 だが末端の者はそうはいかない。殺らねば殺られる。
(だが、できない……。皆に罪を犯させることも、死なせることも)
 躊躇いはすぐさま命の危険に繋がる。今は怪我人でも、一瞬後には死人になるかもしれない。
 
 仲間に死んでほしくないのは優しさだろうか。敵に死んでほしくないのは甘さだろうか。

(俺には選べない)
「選べないよ、骸――」

「ボスっ!!」

「っ!」
 しまった、と思った瞬間にはもう手遅れだった。視界の端に黒光りする筒が見えた頃には、乾いた発砲音が響いた後だった。

 キィンッ

「何なの、この目障りな群れは」
 
 銃弾を弾いたのは、何度も殴られた記憶のある物だった。あまりいい思い出はないが、今だけは頬ずりしてやりたい気分だ。
「雲!」
「ちょっと。質問に答えなよ」
 言いながらも、彼のトンファーは止まらない。
 うげ、だの、ぐごがっ、だの多種多様な声を淡々と上げさせながら確実に相手を昏倒させていく。
「あ、えーと、襲われました! ぐげごっ!!」
 ナチュラルにトンファーに殴られた。
「そんなの見ればわかる。――アレはどうしたの」
「アレ……あぁ、骸のことですか?」
「そう、それ。いないみたいだけど」
「ちょっといろいろあって、今は屋敷に。……本当の父親が護ってくれています」
「……」
 会話をしながらも群がる敵を薙ぎ倒していた雲が動きを止めた。
「え、わっ!?」
 トンファーがたまたまそばにいた男を一際強く吹っ飛ばす。
 哀れな男はジョットと屋敷との間の敵(たぶん味方も混じっている)を薙ぎ倒して転がった。
「早く行った方がいいんじゃない」
 強引に道を作った張本人の珍しい助言に、ジョットは戸惑うばかりだ。
「え……?」
「馬鹿じゃないの。アレの保護者は君でしょ」
「いや、だって、あっちは血の繋がった親子だし……!」
「そんなの関係ないんじゃない。君ら家族なんでしょ? アレから目を離さない方がいい」
「ど、どういう――」

 ブォッ

 予備動作なしでトンファーが突き出された。
「僕の言うことが聞けないの?」
 その金属製の棒は、しかしジョットの目と鼻の先で静止した。鉄か血か、つんと鼻につく臭いを放つそれの奥に、いつになく真剣な黒い瞳があった。
「い、いえ! でも――」
 今自分が戦線を離脱するわけにはいかない、と続けるはずが、トンファーをさらに突き出されて言えなくなる。
「むがっ!」
「ここへ来る途中、屋敷の裏手へ向かう別動隊を見た。部下を向かわせたけど報告はない。……ここまで言えばわかるでしょ」
「――!」
「群れは僕が咬み殺す。早く行きなよ」
「……ありがとうございます!」
 頼もしい背中に後押しされ、ジョットは炎を漲らせ雲が切り開いた道を駆け出した。
「僕らしくないな、全く」
 
 でも、
 
 早くした方がいい。

「……嫌な予感がする」













「――っ」

 ドン ドンッ

 左腕に熱を感じ、自然ラティードの身体が揺らいだ。その隙にと撃った男達は影から影へ移動し接近してくる。
(これ以上、近寄らせはしない!)

 ズガンッ

 こちらも撃ち返すが、あちらはこのテのことに関してはプロフェッショナルだ。
 あくまで頭脳労働担当の自分の銃弾など、そうそう当たってくれはしない。
(くっ……)
 実戦経験で勝る彼らは、おそらくこちらに銃が1丁しかないことも弾切れが近いこともわかっているのだろう。プレッシャーをかけてくることはしても、無理に攻めてくることはない。
(弾が切れればこちらに勝機はない)
 残りの弾は、5発。倒すべき相手は3人。
(すべて倒す。命に変えても!)
 意識だけを背後へやって、小さな呼吸を耳に捉える。
 幼い子。まだ父親らしいことなど何もしていない。自分が逃げたから。この子を捨てたから。
 だから、今度は逃げない。護りきってみせる。
(考えろ、考えるんだ……!)
 まずは状況を整理すべきだ。
 ここはボスの執務室の前。室内には我が子。意識を失っているから動けない。長い廊下には敵マフィアの男が3人。通路の影に身を潜めてこちらを窺っている。この廊下は妙に通路が多いのが特徴だった。
(そういえば……!)
 思い出した。屋敷をボス直々に案内された時、確か――。

(ここだ!)

 ズガンッ

 狙い違わず、弾丸は壁に掛けられた燭台のすぐ下に当たった。そこには周りの壁と明らかに色の違う不自然な窪みがあった。

 ガンッ

「がっ!?」
 何か固いもの同士がぶつかったような音と、くぐもった悲鳴。次いで、人が倒れた重い音。
「一体何が……!?」
 通路に身を隠していたはずの仲間の死に、動揺を隠せなかったらしい。別の通路から一瞬だけ無防備な頭がはみ出した。

 ガゥンッ

 追い詰められた鼠のなんとやらか、ラティードの研ぎ澄まされた集中力は一瞬の隙も見逃さなかった。
「――っ?」
 何が起きたのか全く理解できないままに眉間を撃ち抜かれて、2人目の死体ができあがった。
「くそっ!」
 残る1人は悪態をつきつつも身を曝す愚はおかさない。
(だが、そこも射程範囲内!)

 ガゥン  ガンッ

 連続する全く別種の音。

 放たれた弾丸は最後の1人を狙うことなく、しかしその胸を確実に貫いた。
「そう、か……ぁ……」
 男は理解したと同時に地に伏して動かなくなった。
(感謝致します、ボンゴレ)
 あの時ジョットは、本来他のファミリーになど明かすべきでないこの屋敷の全てを教えてくれた。この仕掛けもそのうちのひとつだ。
 ボスの執務室にいながら死角を狙い撃つための、小さな窪み。独特の湾曲をしたそれは、ある一定の射線から来た銃弾の進行方向を変える。つまりは、意図的な跳弾を引き起こすのだ。
「ふ……ぅ」
 小さく安堵の息をつく。息子を護れた達成感が、疲労を心地良いものにしていた。
 緊張の残り香か、足が震えてうまく歩けないけれど、一歩一歩を確かめるようにして執務室に入る。
 
 執務室の中は、外の喧騒が嘘のように静謐な空間だった。
 四方を本棚に囲まれた、まるで図書室のような部屋だ。インクの匂いとわずかな埃の匂いが支配する、今は静かな一室。持ち主自体は読書などと無縁なのだが、この部屋からそれを窺うことはできまい。
 机の上はラティードが来て以来きちんと整理され、サイン途中の書類が積んではあるものの見苦しさはない。殺風景な部屋に彩りを与えるガーベラの花も、ごく平和に存在し続けている。
 外界から隔たれたこの部屋に、彼の息子はいた。机の影に隠すように、本棚にそっと寄り掛からせたままの状態でうっすらと呼吸を繰り返している。

「……セエレ」

 小さく名前を呼ぶ。
 セエレ。その名前は生まれる前から決めていた。妻の腹が丸く大きく膨らんでいくのを眺めながら、その名前を何度も呼んでいた。だが、生まれてからここで再会するまで、一度も名前で呼んでやったことはなかった。

「セエレ。セエレ……」

 柔らかな頬に手を添える。子供にしては低い体温だが、そこには確かに温もりがあった。

















「っ!!」
 怪我で動けぬ仲間に銃を向けていた男を拳の一撃で吹っ飛ばす。
「ボ、ボス!」
 床に転がることしかできないファミリー達は、苦痛と悔しさに歪んだ表情で呻いた。
「申し訳ありません、ボス……」
「いや、謝るのは俺の方だ。…間に合わなくて、すまない」
 ところどころから上がる呻き声は、明らかに少ない。敵の別働隊は屋敷に侵入し、手当てを受けていた怪我人達を襲ったのだ。床に広がる血のほとんどが仲間の血だった。
「謝らないで下さい。ただ、褒めてやってほしい。死んだ皆は、不甲斐ない俺たちを庇ったんだ。誰よりも勇敢で、立派なやつらだった……」
「……ああ」
 強い意志を宿したまま散った男たちの目を閉じさせる。彼らの墓の周りには、たくさんの彼岸花を植えてやろう。勇敢だった彼らにふさわしい、紅く猛々しくも優しい花を。
「他に屋敷内に敵は?」
「2階へ3人行きました。ボスが来る前に更に1人。2階にはラティードと、霧の――あの子が、まだ……」
 答えたのは料理長だった。霧の守護者の正体を知る、数少ないうちの1人。

「骸……!」


















「……ぅ、父……さ――?」

「良かった、気がついたか」
「っ!!」
 視界いっぱいに広がる実の父親の満面の笑みに、骸は身体を強張らせた。
「ぁ……!」
 必死で後ずさろうともがくが、背後は本棚だ。しかも肩を掴まれているので逃げるどころか身をよじることすらままならない。恐怖なのかなんなのかも判別できない震えが走った。
「大丈夫、大丈夫だから。『父さん』が必ず護ってやるからな」
「ち、ちが――」

 バタンッ

 突然の騒音と共に部屋の空気が大きく動くのを肌で感じて、ラティードは右手に銃を構えつつ振り返った。左手で骸の軽い身体を突き飛ばしながら。

 ズガン  ガゥンッ

 銃声は2発同時。
「――!」
 しかし、できた死体は入口近くにひとつだけだった。
「くっ……!」
 ラティードは右肩を貫かれながらも、生きていた。骸を突き飛ばしたことで身体が流れたこと、そして何より護る決意が彼の命を救ったのだった。

「どう、して……?」

 突き飛ばされた骸が揺れる声をもらした。思考が追いつかない。目の前の光景が信じられない。信じたくない。信じたい。自分がわからない。

「言ったろう? 『父さん』がお前を護ると」

 肩から血を流しながら、ラティードがゆっくりと骸に歩み寄る。

(何を言っているの……)

「『父さん』がいれば、何も心配はいらないよ」
 一歩。

(違う……! あなたは――あなたは、違うのに……!)

「ほら、大丈夫だよ」
 また一歩。ラティードが骸へ手を差し延べる。

(いやだ、やめろ!)



「おいで、セエレ」



「その名でっ、呼ぶなぁぁぁぁぁぁ!!!」

















「骸! ラティード! あっち――執務室か!?」
 直感を頼りにジョットは全速力で廊下を駆ける。
(この感じ、嫌な予感がする)
 くそ、と歯軋りをしつつ真っ直ぐ執務室へ向かう。見慣れたはずの廊下には、弾痕や血の痕がそこかしこに残されて様相を変えていた。
 執務室に近付くにつれて血の臭いが濃くなる。すぐ側の脇道に2人、さらにその先に1人の死体を見つけた。
(無事でいてくれ!)


「その名でっ、呼ぶなぁぁぁぁぁぁ!!!」


(骸の声――!?)
「骸!!」
 執務室の扉は開いていた。飛び込むように部屋に踏み入れば、ドアにもたれる死体がひとつ。







 そして……

















「どう、して?」
 


 がふっ、と口から血を溢れさせたのは、ラティード。
 そして、その腹を貫通し背中から突き出ているのは、特徴的な三叉の剣だった。
「なぁ、セ、エレ……?」
「違う! 違う、違う! 僕は――!」
「ごほっ、が……! やっ、と…決め、た、のに――!」
 血まみれの手を彷徨わせながら、ゆらゆらとかろうじて骸の頬に触れる。小刻みな震えとともに、どうして、と音にならぬ声で繰り返した。
 次の瞬間、ぎりり、とラティードの手に力がこもる。
「愛せる、と……思った、のに……!!」
「やめて……許して……! 違う……っ、こんな、こんなこと……!」
「どうして! どうしてなんだ!! セエ――ー」

 ガゥ……ンっ

 一際大きく響いた銃声に、骸は目を見開いて、ラティードと――ジョットを見つめた。
 自らが刺した父と、その父の頭を撃ち抜いた義父とを。

 どさ……

 重たく湿った音をたてて、ゆっくりとラティードの身体は傾いで倒れた。我が子の、目の前で。
「はぁ……はっ……、はぁ……」
 肩で荒い息をしながら、ジョットは力なく腕を垂らした。まだ熱をもつ銃をその手にぶら下げて。
「……ジョッ――」

「来るな!!」

 痛みを含んだ叫びに、骸はその場に縫い止められた。

  「ラティードを殺したのは、俺だ」

 確かめるように呟く声に、骸はびくりと身を震わせる。
「俺の手は真っ赤に染まってる。俺にはもう、お前を抱きしめる資格なんてない。父親の資格も――」
「違う!! だってその男は、僕が――」
 骸の必死の言葉に、しかしジョットは静かに首を横に振った。
「違わないさ。骸は何も悪くなんかないんだ。悪いのは、俺なんだから」
「何を言ってるんですか! あなたは、あなたはただ……!」
「俺はただ、お前を苦しめただけだったよ。寂しい思いをさせて、悲しい思いをさせて、あげくお前を独りにした……。最低だな、俺。お前の家族、失格だ。ごめん。ごめん、な……む、く……ろ――」

「ジョット!」

 世界がぐらりとよろめき、ジョットの身体は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。ラティードの身体から流れた血が、ジョットの頬を赤く濡らしていく。
 骸が伸ばした手は、届かなかった。埋まらない溝を示唆するかのように、近いのに遠い距離。
 血にまみれているのは骸なのに。ジョットはきれいなままであるべきだったのに。

(どこから、間違えたのだろう? どうしてこの手は届かないのだろう? 僕の望むものはすべてあなたがくれたのに。あなたがいればそれで良かったのに。幸せ……だったのに。どうして……どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてっ!!!)


 もう、戻れない。


「……ク、フフ……クハハ!」

 微かに漏れた息は、すぐに大きな波となって哄笑に変わる。

「クハハハハハ! ク、クフフ……!!」


 もう、いい。
 もう、疲れた。


「クハハ……あぁ……」


 もう、届かない。
 もう、触れられない。
 もう、触れてくれない。


「ジョット……」


 もう、家族にはなれない。

 なら、もういいだろうか。

 六道骸、あなたを遺すのは忍びないけれど。

 もう、休んでもいい?



 

「ありがとう。それから、ごめんなさい」







「……さようなら、父さん。そして、もう一人の僕」


























「はぁ、はぁ……キリがねぇな、ったく」
 刀の柄でまた一人昏倒させながら、雨の守護者は深いため息をついた。
 敵の数は圧倒的に多く、ボンゴレは確実に疲弊している。考えないようにしているが、死者も少なからず出ているだろう。
 みんなは無事だろうか。特に雷が心配だ。いかんせん若いし、根が優し過ぎる。

 そして、骸――。

「……くそっ」
 焦りは隙を生む。そんなことはわかりきっていたはずなのに。

「……っ!!」

 反応がわずかに遅れた。それを自覚した時にはもう、ナイフの切っ先は目前まで迫っていた。疲弊した身体では避けることもダメージを軽減することもできない。
 この軌道は、致命傷だろう。

  (悪いな、ジョット、みんな……どうやら俺が一番乗りみたいだ……)

 目を閉じる。こんな血生臭い場面を目に焼き付けて死ぬなどごめんだった。侍である自分にはふさわしい光景かもしれないが、最期くらい幸せな日々を思いながら死にたい。一番輝いていた時間を、魂に刻んでおきたい。喧嘩ばかりの騒がしい生活だったが、退屈はしなかった。出来ればもう少しだけこの人生を楽しんでいたかったけれど。

 ……
 
 ……

(……ん?)

「……?」
 予想された痛みも衝撃も一向に来ない。不審に思って目を開けると、
「これは――!」
 いつの間にか辺り一帯は深く重い霧で覆い尽くされていた。伸ばした腕の先すら見えないような濃い霧だ。明らかに自然のものではない。

「まさか、骸か?」









「この霧は……!」
「……あの子のだね」
 濃厚な霧のせいでお互いの姿も見えないが、声は近くに聞こえた。それと、複数のざわめきも。
「これじゃあ敵も味方も見えねーじゃねーか!」
「僕らに見えなくても、あの子には見えてるんだろ。――動かない方がいいんじゃない」
「は? そういうわけにも――」

 ズシャっ

「あぁぁぁあ゛!!」
「な、何だ!?」
「おい、何が起きてる!?」
「この霧はなんだよ!?」

 ビシャ

「ゃぁっぁぁあ!!」
「な、何なんだよ! ……あ……ぎぁあぁぁぁぁあ!!」
「おい!? な、なぁ!?」

 濃霧の中、悲鳴と重い水音とが連続する。視界はゼロだ。混乱が恐怖を呼び、恐怖は伝染し拡大し増大していく。

「あぁぁぁあぁあ!!」
「い、嫌だぁぁぁぁあぅぁ゛!!」

「骸のやつ、一体何を……!?」
 気配は、ある。目に頼れない今、鋭敏になったその他の感覚、そして直感とが骸の存在を確かに教えていた。
 霧の中に、骸はいる。
 だが、これは一体なんだ。
「少し黙ったら? ……刺激しない方がいい」
 雲の硬い声に、嵐は口をつぐんだ。
 嵐もまた、骸の気配の中に何か異質な物を感じていたのだ。怒りでも悲しみでも喜びでもない。感情ですらない。もっと別の――虚しさのような、何かを。

「馬鹿だね、ちびっ子……」










 その日を境に、骸は姿を消した。









































2008.4.17

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