13.どたばたパーティー



「……はぁ?」

「だからさ〜、1日だけ! 1日だけでいいから俺の女になってくれよ!」
「…………」

 ブチッ

「ひっ、ひぎゃぁ〜〜〜!!」

















 そんなアホらしい会話が交わされたのはつい2日前。骸の謹慎が解けた直後だった。

「んー……やっぱり黒髪の方がいいかな」
「……」
「もうちょっと長めで」
「……」
「あ、そんなかんじそんなかんじ。ドレスはマーメイドラインの方が骸っぽいよ」
「……」
「ん〜、形はそれでいいけど、色がなぁ。黒だと暗すぎるし。深緑とかオリーブとか」
「……」
「あ、それいい! うんうん、じゃあドレスはそれで」
「……」
「アクセサリーもやっぱり大事だよな。少なくとも耳元と胸元は飾らないと」
「……」
「うんうん、ゴールドよりプラチナだよね。イアリングとネックレスは合わせた方がいいな」
「……」
「おー、豪華! あとは剥き出しの腕が寂しいから、腕輪とか?」
「……」
「そうそうそれそれ!」
「……」
「あとは靴だな。まあどうせ幻なんだし、歩きやすさなんて考えなくていいからピンヒールとかでもいいよね」
「……」
「うわ、踏まれたら痛そ〜。でも見た目は大人の女ってかんじでいいよ」
「……」
「あ! 目の色は変えなくていいよ。骸の目、好きだし」
「……っ」
「だから変えるなってば!」
「あのねぇ、目はさすがに変えないわけにはいかないでしょうっ! すぐバレますよ! 大体なんで僕がこんなことを……!」
 聞こえる声はいつものボーイソプラノだが、今の骸は深緑のドレスに身を包む妖艶な美女だ。細部まで練り込まれた幻覚は身を揺らす度に貴金属がシャラシャラと澄んだ音を立て、大き過ぎずしかし小振りでもない乳房が揺れ動くリアルなものだ。香水の類はジョットが好まないので再現しないが、匂い立つような美貌はそれだけで甘く誘っている。
「いいじゃないか、減るもんじゃなし。それにお前だって嫌だろ? 突然どっかのお姉さんがボンゴレに入り込んで母親面もしくは姉面すんの」
 明日に控えた有力貴族との夜会は、ジョットにとって全く喜ばしいものではなかった。もちろん、貴族同士の腹の探り合いやら苦手なダンスやらもその原因だが、何より面倒なのは女性問題だ。
「そんなのあなたが毅然とした態度をとれば回避できることでしょう! そんなことのために僕を駆り出さないでください!」
 他ファミリーに比べ、ボンゴレファミリーのボスは格段に若い。同様にファミリーとしての歴史も浅いが、他に引けをとらない力と数、それでいて暴力に頼らない清廉さを持ち合わせていた。さらに、ジョットの気取らない性格は誰からも愛され、前線での頼もしさは部下に信頼され、本人は気にしている身長や童顔も、年上の女性には何故かウケが良かったのだ。
 そんなジョットが夜会になど出席すれば、あれよあれよと言う間に囲まれて、あっと言う間に流されるのが目に見えている。というか、骸は知らないが、実際前回は大変なことになったのだ。同席していた嵐に助けられなかったら、今頃――。
「無理無理、あんなの二度とゴメンだ!」 
 嫌な想像図をぶるぶると首を振って掻き消し、ジョットは改めて事の重要性を再認識した。
 これはひとつの聖戦なのだ。それくらいで挑まないと飲み込まれてしまう。それほどに貴族の女性はアタックが強烈だった。
「大体、お前くらいしかこういうことできないだろ。男所帯だし。みんな礼儀作法にうといし」
 信頼がおけて腕が立って夜会の礼儀も心得ていてダンスの相手も勤まる見目麗しい女性。そんな人間など、滅多にいない。いてもとっくに売約済みだろう。少なくともボンゴレファミリーにはいない。
「僕だって一応男なんですけどね……。それに、実体化してないから触れることはできませんよ。ということは、ダンスも無理です」
 その他のことは経験豊富な骸にはたやすいが、子供の身体はこういう時も厄介だった。
「いいよ、踊らないから。ていうか踊れないから。ただ俺の隣に立って、他の人を寄せ付けないようにしてくれるだけでいいからさ」
「だったら嵐の守護者にでもドレス着せて立たせればいいでしょう。礼儀作法なんかは僕よりよほど慣れているはずですよ」
 嵐の守護者は元は大貴族の御曹子だったらしい。正妻やら妾やら複雑な事情があるものの、育ちは紛うことなく社交界だ。夜会など慣れたもののはずだ。
「気持ち悪いこと言うなよ! 嵐はそりゃ美人顔だけど、体型は立派に男そのものだし」
 またも嫌な想像図が出て来て、ジョットは首をぶんぶん振った。

「とにかく、そういうことだから、今夜は頼んだからな!」















「――見事にまずそうな豚ばっかりですね〜」
「む、骸っ!」

 着いて早々目につくのは、ごてごてと着込んで膨らんだ男たちだった。ダンスを踊る気があるのかないのか、単純に贅肉だらけで踊れないのか、席について悠々とワインを傾けている。
「あと娼婦」
「むーくーろーっ!」
 また、端の方では露出の激しいドレスにきつい化粧、さらにトイレの臭い消しかと思うほどの香水で飾った女たちが甲高い声でお喋りに興じていた。
 それらとは正反対の深緑の麗人たる骸は、かなり不機嫌だ。声をきちんと女のそれに変えているあたりちゃんと仕事をする気はあるのだろうが、吐き出す毒はいつにも増して強い。
「頼むから大人しくしててくれよ!」
 小声で骸を叱るジョットは、いつもの漆黒のスーツではなく、派手にならない程度に着飾った黒い燕尾服姿だ。普段の服もそうだが、童顔と身長が災いしてかどうしても服に着られているように見えてしまう。
「はいはい」
「ハイは一回!」
 そんなことをしてるうちに、女たちも男たちもこちらに気付いた。
 視線が集い、一瞬空気が固まったような錯覚を覚える。
 いや、実際固まったのだ。皆息をのみ、動きを止め、まばたきすら忘れてこちらを――いや、骸を注視していた。
「ああ、気持ち悪い。礼儀ってのを知らないんですかね」
 あの目をみんな潰してやりたいですよ、と綺麗な笑みで言い捨てる骸に、ジョットは冷や汗をかいていた。
 そんな中、骸に釘付けになっていた者たちがハッとしたように意識を取り戻し、我先にとこちらへ向かって来た。男たちは骸にアプローチするために、女たちはジョットから骸を引きはがすために突進してくる。足音を荒げないのは、貴族としての最低限のプライドだろうか。
「ひィッ!!」
 その音のない津波のような図はとんでもなく怖かった。死の予感にも似たひやりとしたものがジョットの背筋を駆け抜け、今にも足が逃げ出しそうになる。
「あぁもう、寄るな気持ち悪い。そしてあなたは逃げないでくださいよ」
 骸はさりげなく後退りして迫る男女から距離を取り、同時に死角からジョットの服の裾を掴んだ。
 今逃げたら、何のためにこんな格好でこんなところにいるのかわかったものではない。
「あー、酔うぅ〜吐くぅ〜」
 呻くジョットの気持ちもわかるが、ボンゴレのボスにこんなところで醜態を晒させるわけにはいかない。
 骸は深くため息をつくと、割り切って艶やかな笑みを浮かべ、一歩前に歩み出た。それだけで集団は威圧されたかのように足を止め、静まった。
「皆様、ご挨拶が遅れましたことをお詫び申し上げます。私はボンゴレファミリーのボス、ジョットに仕えるクローディアと申します。身体が弱くワルツも踊れぬできそこないですが、どうぞ広き御心でお許しいただけますよう、お願い申し上げます」
 楚々とした仕種で一礼するその様は、事情を知っているジョットでさえもドキリとさせるものだった。
 ちなみに、クローディアと言うのはジョットが育った孤児院のシスターの名前だそうだ。そんな恩人の名前をこんなところで使うのもどうかと思う。
「少し疲れてしまいましたわ。ジョット様、どこかで休みましょう?」
 そっと差し出された手に戸惑いながらも、反射的に手を重ねる。若干めり込んでしまって驚いた。すっかり忘れていたが、幻覚なので実際の手は小さいのだ。
 不審に思われたかと危惧したが、周りの目は骸の美貌に釘付けで、気付いたそぶりはない。
「ああ、そうだな」
 それっぽく返事をして、さっさと人の輪から抜けることにした。
 が、

「お待ちになって」

 ふと艶かしい声が響いた。蠱惑的で、相手を惑わすような甘さを含んでいた。
「無礼を承知でお願い申し上げますわ。私、ジョット様と密にお話したいことがあるのです」
 媚びるような視線をジョットに向けて歩み寄ったのは、露出の多い真紅のドレスに身を包んだ妙齢の女性。
「マルツィーテ伯爵夫人……!」
 『げっ!!』という言葉はかろうじて飲み込んだ。前回の夜会でも最後までジョットの側を離れなかった人だ。正直に言って、ジョットがかなり苦手とするタイプだった。
 ようするに、アタックが強烈。
「ね、ジョット様」
 誘惑するような声と同時に、ジョットの腕をとって豊満な胸に押し当ててくる。
 もちろんジョットとて健全な男だ。どうしても意識はその感触に持って行かれるし、顔が熱くなるのも仕方がない。女性経験が豊富だとは天地がひっくり返っても言えないジョットは、こういう時にどうすればいいのかわからないのだ。
「いえ、あのっ、え〜……だから……そのぉっ」
 もごもごとハッキリしないジョットに、夫人は更に密着度を高めてくる。
「お願いですわ、ジョットさ――」

 バシィッ

 かなり大きな音を立てて、ジョットの腕が弾かれた。
「なっ――」
「失礼?」
 ジョットと夫人の間に割って入ったのは、夫人とはまた違う艶のある笑みを浮かべた骸だった。
「私、思っていたより嫉妬深かったようです」
 ジョットの腕を引き寄せて、しっとりと身体を預けるようにしなだれる。
 ジョットの身体には骸の小さな身体の感触しか感じられないのだが、なぜだか先程よりどぎまぎとして落ち着かなかった。
「そういうことですから、失礼いたしますわ、伯爵夫人」
 やんわりと拒絶して、骸はジョットと並んで人の輪から離れた。あたかもジョットがエスコートしているかのように見えるが、実際先導しているのは骸だ。ジョットはまだ動揺が収まらず、目を白黒させるばかりだった。














「ジョット様」
「……」
「ジョット様!」
「……」
「――ジョット! いつまでぼーっとしてるんですか!」
 急に声色も声のトーンも元の骸に戻ったことで、ジョットは飛んでいた意識を取り戻した。
 そんなジョットを骸は美麗な姿のまま睨みつけた。美人が睨むと大層迫力があるもので、ジョットは思わず視線を逸らす。

 ぐぃっ

「うぶぇっ!?」

 骸が小さな手でジョットの顎を掴み、顎ごと強引に視線を合わさせた。
「意識が飛ぶほどあの女が魅力的でしたか?」
 攻めるでもなく突き放すでもないが、どうにも冷たい声だった。
(ちょっ……怖いし近いんですけど!)
「なっ、何言ってんだ! そんなんじゃないよ!!」
 慌てて否定するところがあやしいんですよね、と骸は目をすがめた。
「ち、違うってば! 俺はただ――っ」
「ただ、何です?」
「う〜……あーもうっ、お前があんなことするからちょっとドキっとしちゃっただけ!」
 ジョットの顔が赤くなって、その視線は必死に骸から逃れようとせわしなく動く。
「……幻覚に欲情しないでくださいよ」
「ちーがーうーッ!」
 骸の蔑みの視線を感じて、ジョットは慌てて否定した。実際、見た目がどうのこうのというわけではなく、単に骸の言動が嬉しかったのだが。
「はいはい、そういうことにしておいてあげます。とにかく、あの女に対して何の想いも抱いてないならいいんです」
「妙にこだわるよな、お前。あの人がどうかしたか?」
 骸が他人に興味を持つこと自体が珍しい。興味と言うには少し冷え切っていたが。
「あの女、あの時オークションに参加していた貴族の一人です」
「え――!」
 あの時。骸と初めて会った、思い出の場と呼ぶには汚れきった館。
「わかるんですよ。仮面で顔は隠せても、汚らわしい臭いは隠せない。今もそうだ。どんなに着飾ったところで、滲み出てるんです」
 あそこにいた者は皆腐ってますからねぇ、と吐き捨てたところで、ジョットが困ったような縋るような目をしているのに気付いた。
「ああ、あなたもいたんでしたね」
「あれは人身売買の噂を聞いたから潜入してただけでっ! 断じてそういうんじゃないぞ!」
 慌てて否定するジョットに、骸は少しだけ微笑んで顔を近付けた。
「わわっ、おい!」
「大丈夫ですよ」
 顔を近づけてすり寄る骸に、ジョットは少し顔を赤らめた。
「……あなたからは日だまりの匂いがする」
 僕とは違って、という言葉は飲み込んだ。
「俺は干したての布団かよっ。ていうか、嗅ぐなって」
 そう言いながらもジョットは嬉しそうだ。

(この人に、僕がかつて生きるためにしてきたことを話したら、どうなるだろう……)

 生きることを目的に生きていた骸は、どんなものでも利用してきた。その中には、伯爵夫人のような者も数多くいたのだ。そういった類の人間を見分けられるのも、利用価値を見出だしていたからに過ぎない。

(あなただけには、知られたくない)

「おーい、骸?」
 急に黙り込んだ骸に、ジョットは困ったように手を空中でさ迷わせていた。いつもなら手でもなんでも幻に突っ込んで、骸のさらさらの頭を掻き混ぜるのだが、今の骸は見た目だけとは言え美女だ。女に免疫のないジョットは、どうにもやりにくかった。
「……いえ、なんでもありません。とにかく、あの女には気をつけて。たぶんしつこいタイプですよ」













「……なぁ、やっぱ俺ってツイてないのかな」
「さぁ。でも女にここまで求められるなんて、男としてはツイてる方なんじゃないですか?」
「嬉しくなぁぁぁぁい!!」
 
 涙声で叫びながら、ジョットは長い廊下を疾走していた。隣には緑の黒髪を靡かせる美女――もとい、小さな子供を引き連れている。
 その50mほど後ろをダカダカと猛りながら追ってくるのは、あくまで屈強な男であって、女の影はない。あっても嫌だが。
「僕疲れたんですけど」
 隣の美女の内側から、元の骸の声で文句が聞こえた。見た目は依然として美女を装っているが、ハイヒール(それもかなりの高さと鋭さ)でこの速度という時点で不自然さはばっちりだ。それに比べれば、声なんて今更どうということもない。
「全然疲れた声じゃないだろっ」
「はぁっ……はっ……もう、無理です……」
「演技するな!」
 言い合いながら走るというのも大変なはずだが、2人は速度を落とさぬまま角を曲がり走り続ける。全くどこまで追ってくるのか。そしてこの屋敷はどれだけ広いのか。
「あのねぇ、一応体はただの子供なんですから、体力面じゃどうしたって大人には勝てないんですよ」
 ジョットの足に余裕で付いて来ながら、骸はしゃあしゃあとして宣った。
「大体なんで逃げるんです? あんな群れごとき、さくっと殺っちゃえばいいでしょうに」
「『殺る』とか言っちゃいけません!」
 びしっ、としつけるように言ったのが気に食わなかったのか、骸が不機嫌さを滲ませて急に立ち止まった。
「ちょっ、おい!」
 慌ててジョットもたたらを踏みながら急停止した。柔らかい絨毯がぐぎゅっと悲鳴をあげて潰れる。
「僕、面倒臭いの嫌いなんですよね」
 止める間もなく羽音のような鈍い音が響いた。
「待ったぁぁぁ!!」
 常人には見切れない速度でジョットの手が骸の右目を覆う。その際、幻とは言え美女の胸に手を突っ込むのってどうなんだとか、端から見たら何してるんだとか、ぐるぐるとした葛藤があったものの、人命には代えられない。
「ちょっと! 何すんですか!!」
 集中を乱されて幻覚を行使できず、骸が苛立ちもあらわに叫んだ。ジョットはそれを丸ごと無視して、じたばた暴れる骸を小脇に抱えながら再び走り出す。
「降ろしなさいっ」
「疲れたんだろ? これでいいじゃないか」
「子供扱いしないで下さい!」
「体はただの子供なんだろ?」
「ああもうっ――ならこのままでいいですよっ」
 再び羽音が至近距離から聞こえた。
(この状態から!?)
 降ろすわけにもいかず、ジョットはあたふたと手をさ迷わせた。
(や、やばいっ!)
「だっ、誰か――!」

 ガシャァァァン!!

 ジョットの叫びに応えるように、2人と追っ手の間の窓(ちなみに3階)を盛大に割りながら、何者かが侵入してきた。
「――お? 極限に仲が良いな、お前たち」
 闖入者は刈り込んだ灰色の髪からガラスの破片を振り落としながら、暢気に笑った。そのなんとも場違いな様子に追っ手も足をとめ、窺うように構えた。
 極限なんて単語を好んで使うのは、2人の知っている限り一人しかいない。
「……なんで晴の守護者がこんなところにいるんですか!」
「た、助かったぁぁ!!」
 骸は不機嫌に、ジョットは心底嬉しそうにと、両者は正反対の反応で晴の守護者を迎えた。
「助けを呼ぶ声がしたので極限急いで駆け付けたわけだが、追われているのか?」
 ここ3階なんだけどなぁ、と呆れたものの、ボンゴレの守護者たちに常識は通じないのだった。
「厄介な御婦人に目を付けられちゃったみたいで。それより、下の人たちは?」
「ホールの連中なら、嵐のやつが避難させていたぞ。あんなちんたらしてていいのかは疑問だが、それが貴族流らしい。俺には極限理解できん!」
 それはそうだろう。貴族相手に『極限!』などと言ったところで、下賎だとかけなされるのがオチだ。
「なら良かった。ここを任せてもいいですか?」
「極限頼まれた!」
 ぱん、と拳を打ち合わせると、軽く体を揺らしながら追っ手に対し構えをとった。
「ありがとうっ」
 頼もしい背中に礼を言って、ジョットは骸を抱えたまま駆け出した。
「また逃げるんですか…。あと、いい加減降ろしてほしいんですけど」
 なすがままになっていた骸が、今度こそ本気の疲れを滲ませて言った。
「もう追っ手を引き付ける必要もないし、このまま外まで走るぞ。嵐が馬車を用意しているはずだ」
「――このまま……?」
 不穏な単語を耳にしてげっそりした。ジョットはこういう時だけ力強い。子供の力でじたばたしても、その腕からは逃れられないのだ。
 どこまでも足を引っ張る子供の体に、骸は小さく舌打ちをして抵抗を諦めた。
 階段をひとっ飛びで続けて下り、ようやく一階に出ると、嵐はうまくやってくれているようで、広々としたホールに一般客はいなかった。
 だが、
「私、追いかけっこは好きですけれど、この鞭でいたぶる方がもっと好きですの」
 一般という単語がひどく似合わない毒のある笑みを浮かべ、マルツィーテ伯爵夫人を先頭に、屈強な男達がホールの半分を埋め尽くしていた。
「……むさ苦しい図ですね」
 骸が心底どうでも良さげに呟いた。ジョットも同感だったが、夫人の目が射るように見つめてくるので、口には出せなかった。それに、夫人の手に握られている、鞭。友人に鞭を武器として使う者がいるが、それとは全く別の種類のものだと一目でわかる。使用方法は同じだが、精神的ダメージは天と地の差ほど違う。
(あんなんでひっぱたかれるくらいなら、ナイフで刻まれる方がマシだっての!)
 本気でそう思いつつ、片手で構えをとる。もう片方は骸を抱えているので使えない。
「ちょっと! まさかこのまま戦う気じゃないでしょうね!?」
「そのまさかだよ!」
 さらりと言われて、骸は目を剥いた。
「嫌ですよ! 誰が悲しくてあんなむさ苦しい群れに頭から突っ込まれないといけないんですか!」
 例え女の群れであっても嫌だが、男の、しかも筋肉の塊みたいな汗臭い群れは数倍嫌だ。ついでに、変態女の側に寄るのはもっと嫌だ。
「こんの……っ」

 ヴンッ

「離しなさいっ」
 骸の右目の文字が四に変わる。第四の道、修羅道だ。
 骸はぎゅるんっと抱えられた身を回転させつつ、その勢いを利用してジョットの腕の間接を捻った。
「っだぁー!」
 ぎちりと嫌な音を立ててジョットの腕はつったように動かせなくなり、骸の身体が解き放たれる。
「馬鹿馬鹿しい。まとめて吹っ飛びなさい」
 再度羽音が響き、次いでめきめきとホールの床下あたりから不穏な音が聞こえた。
 第一の道、地獄道だ。
「骸っ、激しいのは駄――」

 みしみしみしめぎゃごっ

 なんとも形容しがたい音と共に、屈強な男の群れの中心部あたりから何かが爆発的に広がった。
「ごべっ」「ぐぉあっ!?」「ぶふ!!」
 それは巨大な蓮だった。茎が人の胴ほどもある自然には存在しえない蓮の花。その数え切れない程の茎が男たちの身体を薙ぎ倒し、薄い桃色の花弁がまとめて弾き飛ばしていく。男たちはなすすべもなく吹っ飛び、壁にたたき付けられて気絶していった。
 そこかしこでバシン、だのビシシッ、だの痛そうな音をたてているのを横目に、ジョットは頭を抱えた。
「頼むからそれくらいにしてやって……」
「甘過ぎますよ、全く。せめて二度と人前に立てないような顔にしてやらないと」
 すなわちボコボコのぐしゃぐしゃに。
 骸がかなり苛立っていたのはわかっていたが、雇われの傭兵達にそこまでするのは酷だろう。
「骸!」
「はいはいはい。仕方ありませんね」
 最後に一発、とばかりにバチィッと景気良く吹き飛ばして、蓮の花は霞むように消えた。
 その結果、ホールの壁際には累々たる筋肉の塊が転がり、中心には呆然としたままの夫人が鞭を落として立ち尽くしていた。
「で? あの女はどうするんです?」
 汚い物を見る目で一瞥すると、骸は斜に構えた。
「まさか生かしておくつもりじゃないでしょうね」
 冷たい声に夫人がびくっと肩を引き攣らせた。
「殺せるわけないだろ」
「はぁ? あんな女、死んで喜ばれこそすれ、悲しむ人なんていませんよ。正義を気取るにしても、殺すべきですね」
 ねぇ? と骸は夫人に目を向ける。今や夫人は全身を小刻みに震わせて、頬の肉をごっそり持って行かれたような表情をしていた。厚く塗りたくった化粧と真紅のドレスが、今はただ虚しい。
「殺さない。正義だとか、そんなのは関係ないよ」
「あのねぇ、甘いのも大概にした方がいいですよ。あの女を殺すことで護られる命もあるんだ」
 あの鞭で今まで何人の子供を打ち殺してきたのか。ひょっとしたら凪達がその標的になっていたのかもしれないのだ。もちろん骸自身も。
「大切にすべき命と、そうでない命。それくらいは分けた方がいい」
 静かにそう言って、骸は歩を進めた。夫人の方へ。
「ま、待て! 殺しちゃダメだ!」
 慌てて骸の腕を掴み、振り向かせる。
 夫人はもう立っていることもできないのか、床にへたり込んでうずくまっていた。
「……これは僕なりの予言です。その甘さとあなた本来の優しさは、いつかあなたを狂わせる。どちらかを捨てなさい。願わくば、優しいままのあなたでいてほしいですがね」
 一方的な助言を残し、骸は霧に紛れてかき消えた。
「骸――!」
 その言葉は、きっと骸なりの優しさだ。優しくするのもされるのも苦手な彼の、精一杯。
 だからこそ、ジョットには深く響いた。
 
 でも、それでも、ジョットは彼女を――誰かを手にかけることはできなかった。












始まりはギャグ調なのに、書いているうちにシリアスに締めくくることになってしまった……。

2008.4.7

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